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2008年9月28日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマ人への手紙13章11節〜14節まで 説教題:「希望の日々を生きる」 おはようございます。阿倍野教会のさらなる成長を非願して、教会の玄関に花がある方がそっと置いてくださいました。彼岸花です。 私は知らなかったのですが、彼岸花は墓花とも呼ばれているとある方から教えて戴きまし た。お墓の周りに咲いているからだそうです。キリスト教会はイエス様が死から甦られた 日である復活を記念して、日曜日毎に礼拝を行っています。 11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。 11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。 今朝も死の力をも討ち破られた主を皆様方と共に礼拝したいと思います。 今朝はローマ人への手紙13章を通して、この世に生きる信仰者たちは、社会とのかかわりなしに生きていくことはできません。そのような中で国家とどのようにかかわっていくのか、又、終末と言われるこの時代の信仰者はどのように生きていくのかという、少し堅い内容のお話になるかも知れませんが、皆様方とごいっしょに神様からの語りかけを戴きたいと思います。 |
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2008年9月21日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマの人への手紙12章1節〜8節 説教題:『神に喜ばれる生活』 おはようございます。9月の月も中旬を過ぎ、朝、夕に涼しくなって、過ごし易くなりってまいりました。暑い夏も過ぎ、過ごしやすい秋の季節を迎えていますが、この秋、皆さんはこの秋をどのように過ごされるでしょうか。読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋と人それぞれの秋があると思いますが、礼拝に出席される事には、あきることなく、これからも熱心に教会にお出かけ戴きたいと思います。 礼拝ではローマ書から1章づつ皆様方とご一緒に神様から語りかけを聞く時を持たせて戴いています。ローマ書全体の内容の構造については、すでにお話をしていますので、もう憶えましたといわれる方がおられるかもしれませんが、ローマ書全体の内容の構造について、もう一度、確認しておきたいと思います。ローマ書は16章にわたって記されています。その内容を区分すると1章から8章と、9章から11章と、12章から16章という3つの区分に出来ますが、第一区分の1章から8章においては、人の救いが述べられ、第二区分の9章から12章ではイスラエル民族の救いが述べられ、今日から第三区分の12章から16章にわたって救われた者たちの生活が主題として取り上げられ、私達信仰者はどのように生きていくのかという具体的な内容が記されています。 今朝はローマ書12章を通して、神様は私たち信仰者に対して、どのように生きていく事を求めておられるのかという事について、共に見ていきたいと思います。 12章に入る前に、これまでローマ書1章から11章を学んでまいりましたが、これまでの内容をコンパクトにまとめてみたいと思います。 ローマ書を書き記した使徒パウロは、人の救いもイスラエル民族の救いも、すべてはイエス様を信じる信仰によって救われるのであり、人の行いによって救いを得る事では無いという事であり、しかも、先週の礼拝では、神様の救いのご計画は私達、人間が考えることも出来ないほど素晴らしいご計画であり、パウロはその事を11章33節で 11:33 ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。 という言葉を持って表現しています。 私達たち一人一人、自分の事を考えて戴きたいと思います。私達はどの様なところから神様によって見出され、神様の御救いを受けたのでしょうか。私自身は、全くキリスト教と縁もゆかりもないものでした。この様な者が神様に見出され、今、クリスチャンとなっているという事は思っても見ない事でした。皆様の方には、生まれた時から父と母がクリスチャンで幼い時からキリスト教的背景の中で育ってきましたからと言われる方もおられるかも知れませんが、しかし、どれほど熱心な両親の元で育ったとしても信仰は一人ひとりが主を信じて、初めて救われることであり、しかも私たちに何か良いものがあるから、何かができるからと言って御救いを受けたのでは無いと言う事です。イエス様の救いを信じることができるという事はなんという恵みでしょうか。多くの人たちはイエス様の救いの素晴らしさを知りません。そのような中でほんとにこれほど幸いな事は無いのでは無いでしょうか。そんな私達に対して使徒パウロは12章1節の前半において、 |
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2008年9月14日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマ人への手紙11章11節から24節 説教題:神の富と知恵と知識 おはようございます。明日の15日は敬老の日です。今年、4月に阿倍野教会の牧師に就任した私は敬老の日はどのようにされておられましたかと教会員の方々に伺うと、阿倍野教会では敬老の日の最も近い日曜日に敬老の日礼拝を行っており、75歳以上の方々を一つの区切りとしていると伺いました。私が3月までいました九州の八幡教会でも敬老の日のお祝いの時を待たせていただいておりましたが、私たちは様々な試練、困難を乗り越えてきた信仰の先輩方を大切にする者たちでありたいと思います。私たちの教会にとっては大切な存在の方々です。敬老の日をお祝いされる方がたに取って、75歳と言っても未だ未だ、若い人たちよりの元気な人達もおられ戸惑いを覚える方々もおられると思います。しかし、一応、75歳以上というラインを設けていますので、その事をお許し戴き、阿倍野教会の教会員の中で75歳を超える方々の事を憶えて祝福のお祈りをさせて戴きたいと思います。 今朝はローマの信徒への手紙11章全体を通して、神様のご配慮はどれほど私たちにとって素晴らしいものかという事をごいっしょに見て参りたいと思います。 |
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2008年9月7日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマ人への手紙10章1節から14節 説教題:『恵みを与える神』 御挨拶したいと思います。おはようございます。夏休みが終わり、小、中、高校と2学期の授業が始まりました。我が家の子供たちも高校に小学校に通っていますが、下の子どもは小学校で身体測定があったようです。身長を計った所、あまり変化がないので、変化ないや。といったら、先生が4月の測定の時と比べて1センチ伸びていると言われたと話してくれました。私は良いな。お父さんは、背が伸びる所か少しづつ、ちじんでいるよ。といったら、それは「老化やん」。と言われてしまいました。イザヤ書40:31には しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。 と記されているように新たな力を受け、鷲のように空高く昇る事が出来る者とされている事は何と幸いなことでしょうか。 先週の礼拝では、ローマ書の9章から11章の部分についてある学者が魚の骨に当たるという事を語ったとお話いたしました。お魚を3枚におろすと言う言葉がありますが背骨を中心にして二つの身の部分が取れますが、1章から8章までが美味しい魚の身であり、12章から16章も身の部分に当り、9章から11章が、骨で食べられないと言う見方になります。しかし、魚は骨なしに美味しい身をつけることがないように、この箇所は手紙の中で大切な箇所であるといえるでしょう。 先週の礼拝ではローマ人への手紙9章においてパウロの心の中には絶え間ない痛みがあると書き記しているとお話致しました。その痛みとは 9章3節に記されているように 9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。 と言うように、自分達の同胞であるユダヤの人々が神様の元からはなれていることでした。 彼らの姿を見てパウロは祈らずにはおれませんでした。その事が10章1節に記されています。 10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。 では、パウロが祈っているユダヤ人達はどの様な姿であったノでしょうか。 10章2節を見ますと 10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。 と言うように正しい知識に基づいたものではなかったという事でした。 今朝はパウロがユダヤ人たちの姿を見て、どこがどのように間違っていたのかという事を指摘している事を通して、今日の私達も、誤っているところは無いかという事を検証しながら、今日の聖書箇所を見て参りたいと思います。 |
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2008年8月31日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマの人への手紙9章1節から18節 説教題:「憐れみの神」 おはようございます。先週の礼拝ではローマの人への手紙8章から「輝いて生きる」と言う説教題でお話をいたしました。ローマ書8章は聖書の真髄である神様の恵みが述べられていると言われています。その内の一つをあげるならば、8章32節をあげる事が出来ると思いますとお話いたしました。 8:32 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 私達が救われる為に、神様は独り子なるイエス・キリストを十字架につけてまで、わたしたちの罪を贖いたもうお方は、すべての物をくださらないはずがない。それほどまでに私達を愛しておられる神様であるという事です。誰が、私のため、あなたの為に、そのような事をしてくださいますか。 聖書には鼻から息のするものに期待してはいけない。と神様は私たちに聖書のみ言葉を通して語っておられます。神様は人に期待しないで、私に期待しなさいと語っておられます。神様は信じる者たちを決して失望に終わらせられるようなお方ではありません。神様に信頼して歩み続けるならば、神様はわたしたちの生涯、すべての事を益となしてくださる方です。私たちが何かをなすのではなく、一方的な恵みの故に救いだして下さった神様を知った使徒パウロは、8:35 私たちをキリストの愛から引き離すのはだれですか。患難ですか、苦しみですか、迫害ですか、飢えですか、裸ですか、危険ですか、剣ですか。8:36 「あなたのために、私たちは一日中、死に定められている。私たちは、ほふられる羊とみなされた。」と書いてあるとおりです。8:37 しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。と告白しています。私自身も、神様の素晴らしさに触れ、この方から、決して離れる事が出来きません。この思いは私だけではなく、今朝、礼拝に集って来られた皆さんも同じ思いであろうと思います。その思いはパウロの語る8章39節の言葉の中に含まれているといます。8:39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。この信仰的境地こそ、最高のものであると思います。 今朝は、これまでとは全く、趣の変わったローマの人への手紙9章を通して、御一緒に神様からの語りかけを聴きたいと思います。 |
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2008年8月24日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマの人への手紙8章31節〜39節 説教題:『輝いて生きる』 おはようございます。先週に引き続いて、再びローマ書からご一緒に学びたいと思います。今朝の聖書箇所はローマ書8章31節から39節ですが、8章全体から見ていきたいと思います。ローマ書8章は聖書の中でも、もっと素晴らしい章の一つと言われています。 ドイツの有名な聖書学者のシュペンナーという人は聖書全巻を指輪にたとえると、ローマの信徒への手紙は宝石の部分に当たり、8章は宝石の中でも一番光っている部分であると語ったと言われます。それほど、このローマ信徒への手紙への手紙8章は聖書の中で聖書の中において神様の最高の恵みを述べている箇所といえます。この8章から『輝いて生きる』と言う説教題で私達クリスチャンとはどの様なものであるのか、輝いて生きるのはどのようにして生きるのかという事を皆さんと御一緒に学びたいと思います。 |
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2008年8月17日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマの人への手紙7章12節から 説教題:『祝福を得る秘訣』 おはようございます。今朝の聖書箇所の少し前の7章1節から6節を見ますと、結婚のたとえを用いて、パウロは語っています。 7章の1節、2節 7:1 それとも、兄弟たち。あなたがたは、律法が人に対して権限を持つのは、その人の生きている期だけだ、ということを知らないのですか。――私は律法を知っている人々に言っているのです。― 7:2 夫のある女は、夫が生きている間は、律法によって夫に結ばれています。しかし、夫が死ねば、夫に関する律法から解放されます。 パウロさんが結婚のたとえをもって語らうとしている事は一体どんな事であるかということか分かったようで分からない内容かもしれません。 パウロさんが、イエス様が十字架にわたしたちの罪を贖ってくださったと言うのなら、その事のみを信じて救われるのなら、私達の行いは必要ないのかという疑問が起きてきても不思議ではないかという事を踏まえて語っていると捉えて戴きたいと思います。 律法とは神様の教えであり、何なにをしてならない。と言った事柄です。つまり行動が伴なう事でもあるのです。しかしパウロさんはどの様な行動がなされても、救いは完全になされないと言うのです。 そこで結婚した女性が夫との関係で結ばれているのは生きている間のことで夫が死んだなら婚姻関係が解消するように、私達信仰者はイエス・キリストを信じて洗礼を受けた時、死んだものです。つまり良い行いを行って救われようという事に対して死んだものだ。救いのための努力、良い行いをしなくても良いというのです。むしろイエス・キリストと言う方に結ばれて生きるものとなったのだと言うのです。 |
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2008年8月10日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマ人への手紙6章1節から14節 説教題:新しい命に生きる おはようございます。今朝の聖書箇所はキリスト教信仰者にとって、もっと大切な教理を教えている聖書箇所です。ローマ人への手紙は1章から8章において教理的な内容が記されており、1章1節から5章11節までの前半である最初の4章半には行為としてのもろもろに罪、英語で言うと(sins)についてローマ書は記しており、5章12節から8章39節の後半には、原理としての罪(sin)が記されています。言葉で語ると良く理解出来ないかも知れませんが、1章1節から5章11節には行為としての罪の数々が記されており、後半の5章12節から8章39節には罪を起させるもの、原罪としての罪が記されているというのです。人は清いものとなりたいと考えているのに、何故か再び、罪にさいなまれる事があります。その事は、何故なのかという事が5章12節から8章にかけて語られるメッセージという事になります。 私は以前、内村鑑三先生の事が書かれた本を読んでいた時、読んだ本の題名は忘れましたが、その中に、内村鑑三先生は、キリスト教は宗教にあらず、十字架教であると語られたという事が記してあったと思います。内村先生ではありませんが、まさにキリスト教はイエス様の十字架に御業なくしては、成立しえないといえます。イエス様の十字架の御業があって初めて、人類の救いがなされました。 その十字架の出来事は、私達にとって二つの意味をもっています。一つ目は私達の罪の為にイエス様が十字架に掛かってくださって、わたしたちの代わりに身代わりとなって罪を贖ってくださったという事、もう一つはキリストと共に私たちが十字架に付けられたという出来事です。私達の罪の為になされた十字架とイエス様と共に付けられた十字架という事の二つの出来事がイエス様がなされた十字架の御業といえます。 |
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2008年7月27日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマ人への手紙4章1節〜12節 説教題:『希望に満ちた人は』 おはようございます。今朝もローマ書から皆さんとご一緒に学びたいと思います。ローマ書はキリスト教の教理が主に書かれている手紙ですので、堅ぐるしく思える内容かも知れませんが、神様による救いとはいったいどのようなものか。どうしたら与えられるのかという事が激しく論じられている書であると思います、私たち信仰者たちにとって大切な教理が記されています。 先週は、ローマ書の3章から神様からの語りかけを聞く時を持たせて戴きましたが、3章の10節、11節には 3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。 3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。 と記されているように神様の目から人間を見ると、誰も一人として正しいと主張できるものはいないという事ですが、しかし、そのような私達に唯一、救いに至る道を与えてくださった。それがイエス様であるという事でした。ヨハネによる福音書14章6節には、 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とあり、この言葉を語られた方はイエス様であり、私こそが、神様の元に行ける唯一の道であると語られた。とお話いたしました。イエス様の罪の贖いゆえに、その贖いを自分の罪の贖いを成してくださったという事を信仰を持って受け入れる時、私達の罪が赦され、神様との関係が死んでいた者が再び回復し、神様をお父様と呼べるような関係へと修復なされるというのです。 私達はこのような事を語られても、中々、神様との関係が分かりません。何故、自分の罪の為にイエス様が身代わりになられ十字架に付かれなければならなかったのか。また父なる神様とイエス様と聖霊様という三位一体の神様の事が良く分かりません。神様はただお一人でいいのでは無いのか、3つが一つ、頭で考えても理解出来ません。ましてや、イエス様の事を信じるだけで義とされる。中々理解できないことです。その理解出来ない事を判りやすく書き記しているのが、今日の聖書箇所でもあるといえます。 |
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2008年8月3日聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマ人への手紙5章1節〜11節 説教題:「神を喜ぶ生涯」 おはようございます。私たちは今、毎週、ローマ書を一章づつ、連続して神様からの語りけを聞きいています。ドイツの有名な学者であるシュペナーは聖書全巻を指輪に例えたとしたら、ローマ書は指輪の中の宝石の部分に当たり、宝石の中の最も輝いている所が8章であると語ったそうです。今朝は5章ですから、だんだん輝きが増して行きはじめたところかも知れません。ローマ書は難解な書であると言われていますが、今朝も聖霊様に導いて戴いて、ローマ人への手紙5章から、神様からの語りかけを戴きたいと思います。 イエス様は、聞く耳のある者は聞くべしと語られました。心開いて主からの語りけを聞く者たちでありたいと思います。 お祈りをもって始めます。 今朝は5章1節から11節にかけて「神を喜ぶ生涯」と題して、私たち信仰者たちに対して神様はどれほどの希望を与えてくださるお方なのかという事をご一緒に今日の聖書箇所を通して見て参りたいと思います。 今朝の聖書箇所である5章2節を見ますと、 5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。 と記されていますし、3節には患難さえも喜んでいます。とあり、11節にも私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。と記してあるように、使徒パウロはキリスト者である、私たち信仰者の生活は神様を喜んで生きる者たちであり、そのような生活ができるのはイエス様を信じる信仰によってなされるのだと語っているといえます。 では具体的に、私たち信仰者が、どうして喜びを持って生きていくことができるのかという事を見て行きたいと思います。 |
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2008年7月13日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマの人への手紙2章17節〜3章8節 説教題:神に喜ばれる人々 おはようございます。今朝も先週に引き続き、ローマ書を通して共に神様からの語りかけを聞く時を持ちたいと思います。パウロは今朝、聖書朗読者の方に読んでいただいた 17節の中に「もしあなたがユダヤ人ととなえ、律法をもつ事に安んじ」と書き記し、当時のユダヤ人達は、特に、自分達は神様に選ばれた時別な民族であり、他の異邦人達とは異なるという意識が強いものたちでした。ユダヤ人たちは神様の教えである律法が与えられ、割礼を施しているという事によって選民意識が強く現れている民族でした。 彼らは自分達と異なる民族である異邦人達に対して、いつも自分達のほうが、一段上であると考えており、自分達は神様から与えていただいた教えである律法を守る生活をしているので、異邦人達に対して、批判し、彼らは人々を裁く立場にあったものたちでした。しかし、パウロは、彼らは人を裁いているが、彼らには弁解の余地はなく、結局は人を裁くことによって自分も裁いていることになるのだと指摘しています。 |
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