19:17 イエスは彼に言われた。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」
とイエス様が言われると、青年はイエス様の答えに対して
19:18 彼は「どの戒めですか。」と具体的にどのような事ですかと問い返します。するとイエス様は
青年に対して
「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。
19:19 父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」
とお答えになられました。すると青年はすかさず、イエス様に対して
「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」
と答えます。彼は自身タップリに答えてと思います。するとイエス様は、青年の返答に対して19章21節において
19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」
とイエス様はいわれました。そうすると青年はイエス様のこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去ったとあります。それはたくさんの財産をもっていたからだというのです。この青年は多くの財産によって豊かさに恵まれた環境の中で大切なものを持っていないことに気づきイエス様のところにやって来たわけですが、その大切なものとは「永遠の命」だったわけです。その事に気付いた青年はとてもすばらしい事に気付いたと思います。
しかし、その青年に対してイエス様は持ち物を売り払って貧しい人々に施しなさいと告げられました。イエス様は青年がもっている富みが神を見えなくしている原因であると見抜かれたといえます。彼は自分の富を他の人にわけ与えようとする事に対して執着心があったのではないでしょうか。それとも富という物こそが自分の幸福になる一番の秘訣であると考えていたのかも知れません。イエス様の言葉を聞いた青年は悲しんで、立ち去ってきました。青年は、せっかくイエス様と出会いながら、そしてイエス様に対して、直接、問いかけたのにもかかわらず「永遠の命を得る事ができなかった」といえます。
イエス様と青年が永遠の命に関してのやり取りの状況を目にしていた弟子たちは、イエス様と青年との対話を聞いて驚き、それでは誰が救われるのだろうかと質問をしています。それに対して「それは人間に出来ることではないが,神にはなんでもできる」とイエス様は答えられました。
イエス様が、「それは人間に出来ることではないが,神にはなんでもできる」と語られたこの事は具体的にどのような事をさしているのでしょうか。それは、私達人間は、自分の持っているものを捨てるという事を口先では簡単に言う事ができますが、しかし、実際はそのような事はなかなか出来ないものです。しかし、神にはなんでもできると言う事の意味には、神様には私達が愛着しているところの物、私達をとらえてやまないものを捨させる事が出来る。という事を語っておられるとも言えますし、神様は独り子イエス様を十字架につけて全人類の罪の贖いの業をなされた。そのような事が出来るといわれる御方だというようにも受け取れます。
私が小学生の頃、近所に、とても利口な男の子がいました。近所でも賢い子だと、評判の男の子でした。今でいえば幼稚園児か保育園児の子供です。話すと大人のようにお話が出来る子どもでした。夏のある日、九州地方に台風が押し寄せてきました。田舎の川は普段はおとなしい、きれいな水が流れ奇麗な川ですが、台風で雨が降ると、川は水であふれ、道路近くまで水が上がってきます。台風が去って、川がいつのもようにあふれていました。
しばらくして、近所で見かけていた、男の子がいないということで大騒ぎになり、捜索が始まりました。しばらくして、お母さんが大声をあげて、水にぬれた子供をだき抱えて帰ってきました。その自分の子供を亡くして泣き叫ぶ母親の声は今でも私の脳裏に焼き付いています。自分の子供を亡くした母親の気持ち以上に神様は愛するイエス様を十字架につけて、殺してしまうという事をしたのです。それはひとえに私たち人間を愛している故です。イエス様は「それは人間に出来ることではないが、神にはなんでもできる」という言葉をもって教えておられるといえます。
「私たちは、なにもかも捨てて、あなたに従ってきました。という」報酬を求めるペテロの姿について考えるならば、私たちは意外と、信仰生活ばかりではなく私たちの身の回りではそのような事、つまり、私はこれだけの事をしたのだから、当然、これだけしてもらうのが当たり前だと考え方、それは親と子との愛情から夫婦、関係や信仰における教会生活にいたるまで案外、根深くあるのではないでしょうか。そこでイエス様はペトロに対してたとえを持って語られたのです。
このたとえの中に信仰とはどのような事なのかといった本質が隠されているといます。20章1節
20:1 天の御国は、自分のぶどう園で働く労務者を雇いに朝早く出かけた主人のようなものです。
とあります。このところにおいて教えられます事は、信仰とは、人間が始める事ではなく、ぶどう園の主人である神様が自分の方から私達の方に向かってくると言う招きであると言うのです。その事は、葉書や招待状ではなく、招く主人が直接に自ら出向いて来られるといえます。神様は、すばらしい恵みにあずからせようとほかならぬ、あなたをそして私を招いておられるというのです。
愛という事を考えてみましょう。愛する人がいたとします。愛する人が日本の反対側であるブラジルという国にいたとします.その人に日本にいて、愛しています、愛していますといくら口で叫んで見ても具体的な行動がなくては相手には通じないのではないでしょうか。今なら、メールをするなり、手紙を書くなり、行って会うなりしないでどうしてその思いが伝わるでしょうか。ある注解書には愛する者は出てきます。自分の方から手を差しのべ、苦しむ者、病める者のところに出てゆかれる。神は御子イエス・キリストとなって私たちのところにきてくださった。私達はここに神様の愛の深さを示されるとありました。
では、信仰という事を考えた時、それは、ただ何もせずにいることではなく、神様の招きに答えて、ぶどう園にいって働き人となって働くならば神様は報酬を約東されます。一日1デナリオンという報酬を全ての人に約束してくださるというのです.ぶどう園の主人は9時ごろにも出かけています。そして広場にいる何もせず立っている人達を見られたのです。そのものたちは招く方が声をかけない限りなにもしないような人達に対しても、神様はふさわしい賃金払ってあげようと招かれました。この招きは,朝早くから始まり、9時、12時、3時、夕方5時頃と何度も,何度も繰り返されています。このことは、決断のチャンスは決して一回ではないと言う事であり、もう誰も期待しないような状況で、あきらめきったような人たちの中にも、神様は私達のところにきて私達を求めておられるということです。
この招かれたと言う出来事の意味については、初代教会、中世、近代、現代、そして夕方5時は今日と言うように歴史的に捉える方もいますし、はじめに招かれた者たちは、ユダヤ人たちで、異邦人は5時という見方や、また招かれた順番に若いときに招かれた者、青年時代は9時から12時ごろそして60才代、70才代と言うように年代で見る見方で、5時という時間は、最後の最後の晩年に招かれたものという捉え方をする学者もいます。
神様はたとえどのよう立場にある方であったとしても、神様は受け入れてくださる方であると言えます。
私がある会杜の人事担当者であったとします。私が、もし人を雇い入れるとする場合、それはその会杜の目的にかなった人を雇い入れると思います。朝早く労働者を雇いに行った場合、労働者を雇う条件を上げるとするならば、体カ、知カに優れているか。まじめに働きそうか。という事を考慮に入れて雇い入れるでしょう。それでも足りない場含は、少し条件をゆるくして、雇い入れるでしょう,そういった考え方がこの世の中における常識です。しかし、このぶどう園の主人である神様はこの世の常識とは異なっています。
ユダヤでの労働時間は、朝の6時からタ方の6時と決まっていたそうです。ですから、夕方の6時まで後1時聞しかない者に対して,また働きたくても誰も雇ってくれないという絶望の中にいるものたちのところにもぶどう園の主人は来てくださり、あなた方もぶどう園で働きなさいと言われる御方です。彼らはブドウ園の主人の言葉を耳にした時どのような喜びを持ったことでしょうか。もうだめだと言う絶望に近い状況下の中にあっても、あなた方もぶどう園で働きなさいと声をかけてくださるのです。神様はほかでもないあなたをそして私を必要としておられるのです。
さて、報酬を支払う時となって、主人である神様の行動に目を留めるならば神様は、監督に言って、最後に来た者から順々に賃金を払いなさいと命じて、最後に来た者には、なんと1デナリという報酬を支払ったというのです。驚くべき事ではないでしょうか。
朝早くから来て、ぶどう園で働いていた者たちは、その事を見ていて、自分たちはもっとたくさんもらえるかも知れないと期待したといえます。当然と言えば当然です。
しかし、最初に来て働いた者たちも、同じ1デナリでした。彼から、自分の報酬を戴くと不平を口にしました。
20:12 言った。『この最後の連中は一時間しか働かなかったのに、あなたは私たちと同じにしました。私たちは一日中、労苦と焼けるような暑さを辛抱したのです。』しかし、主人は、『私はあなたに何も不当なことはしていない。あなたは私と一デナリの約束をしたではありませんか。
20:14 自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。
20:15 自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか。それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか。』
20:16 このように、あとの者が先になり、先の者があとになるものです。」
と語られました。
私は高校を卒業後、ある会社の工場で働きました。4年間働いて、5年目の4月に、大学を卒業して入社してきた人がいました。私と同じ年齢の人でした。ある時、彼の給料の額を聞いて、びっくりしました。まだ1年も働いていない新卒の人の給料が高かったのです。その当時は、労働者側が売り手市場で、少しでも良い給料のところを選んでいたので、入社したばかりでも、当然、給料が高くないと人が集まらないという状況にあったわけですが、私自身はそん時、何故と不満を持った者です。
今は、実力、能カを重視する杜会となってきていますが、一般的に言ってその当時はそれが常識になっていました。その当時の私はその会杜で働かせていただいているという気持ちは無く、働いてやっているのだという気持ちしかなかった者です。振り返ってみるならば自分の中に存在する傲慢さに気づかされます。一般的な杜会ではそうあったとしても天の国においてみてみるならば神様は私達に対してどのような者も差別なされない方なのです。私はある時、母親に対してこんな事をいった事があります。
「かあちゃん、かあちゃんには子供が全部で5人いるけど、かあちゃんは、その中で○○兄ちゃんが一番かわいいじゃろ。○○兄ちゃんは頭もいいし、言う事は聞くし・・・・・」
と言いました。すると母は急に悲しそうな顔をして
「かあちゃんは、子供達に対して、誰だれがかわいい、誰だれか,だれよりもかわいいとは思わんかったよ。みんな、一人一人かわいいと思ったよ。そして涙を目にためていました。」そんな母を見て、私は何も言えなくなってしまいました。
このように人聞の母親が自分の子供一人一人を愛しているのに、ましてや、天の国の神様はどのような人であっても、どのような状況にある人であっても一人一人を愛しておられる御方何です。そして、神様が私たちを天の国に招いてくださった、それも自分の一番大切な、愛してやまない御子イエス・キリストを十字架につけてまでも、私たちに限りない愛を示してくださいました。その事をとうしてわたしたちは愛するという事がどのような事かを知っている者達です。その事ことゆえに神様によって今ここに許され招かれているわけです。教会は神の国、天の国のひな型と言われます。雛型である教会において、私たち一人一人を招いていてくださった事に感謝してそれぞれに与えられている賜物を生かして、喜んで奉仕したいものです。
お祈り致します。