プロテスタント・福音主義キリスト教会 日本ナザレン教団 阿倍野教会 礼拝メッセージ
2008年9月7日  聖日礼拝説教
2008年9月7日  聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマ人への手紙10章1節から14節
説教題:『恵みを与える神』
御挨拶したいと思います。おはようございます。夏休みが終わり、小、中、高校と2学期の授業が始まりました。我が家の子供たちも高校に小学校に通っていますが、下の子どもは小学校で身体測定があったようです。身長を計った所、あまり変化がないので、変化ないや。といったら、先生が4月の測定の時と比べて1センチ伸びていると言われたと話してくれました。私は良いな。お父さんは、背が伸びる所か少しづつ、ちじんでいるよ。といったら、それは「老化やん」。と言われてしまいました。イザヤ書40:31には
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。                             
と記されているように新たな力を受け、鷲のように空高く昇る事が出来る者とされている事は何と幸いなことでしょうか。
 先週の礼拝では、ローマ書の9章から11章の部分についてある学者が魚の骨に当たるという事を語ったとお話いたしました。お魚を3枚におろすと言う言葉がありますが背骨を中心にして二つの身の部分が取れますが、1章から8章までが美味しい魚の身であり、12章から16章も身の部分に当り、9章から11章が、骨で食べられないと言う見方になります。しかし、魚は骨なしに美味しい身をつけることがないように、この箇所は手紙の中で大切な箇所であるといえるでしょう。
 先週の礼拝ではローマ人への手紙9章においてパウロの心の中には絶え間ない痛みがあると書き記しているとお話致しました。その痛みとは 9章3節に記されているように
 9:3 もしできることなら、私の同胞、肉による同国人のために、この私がキリストから引き離されて、のろわれた者となることさえ願いたいのです。
と言うように、自分達の同胞であるユダヤの人々が神様の元からはなれていることでした。
彼らの姿を見てパウロは祈らずにはおれませんでした。その事が10章1節に記されています。
10:1 兄弟たち。私が心の望みとし、また彼らのために神に願い求めているのは、彼らの救われることです。
では、パウロが祈っているユダヤ人達はどの様な姿であったノでしょうか。
10章2節を見ますと
10:2 私は、彼らが神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。
と言うように正しい知識に基づいたものではなかったという事でした。
 今朝はパウロがユダヤ人たちの姿を見て、どこがどのように間違っていたのかという事を指摘している事を通して、今日の私達も、誤っているところは無いかという事を検証しながら、今日の聖書箇所を見て参りたいと思います。
 
ユダヤ人たちは幼い頃から熱心にモーセ5書と呼ばれている、創、出、レビ、民、申命記を暗唱するといわれています。すごいことであると思います。それほどの熱心なものですが、いくら聖書の御言葉を暗記しても、救いを得ていなかったら、何にもならないと言えます。 
私はエホバの証人の人達の事を良くお話いたしますが、彼らは、誤った真理を教え込まれ、自分達が救いを得る為に必死で伝道しています。彼らの教理にはイエス様の救いがありません。ですから必死で自分達の行いによる伝道活動へと駆りたてられています。北九州にいた時、キリスト教書店で本を見ている時、ウィリアム・ウッドさんの本を手にしてみていた時、書店で働いておられたTさんという方に声をかけられました。Tさんは以前、エホバの証人だった方でした。Tさんは、エホバの証人の時、自分達は正しい事をしており、キリスト教会の人達は堕落しているという捕らえ方をしていたそうです。しかし、ご主人が奥様をエホバの証人から救出するためにお仕事を長期休暇をもらって、救出専門としておられるK先生に説得に当たってもらって、自分が間違っていた教えに洗脳されていたと言う事を知らされ、愕然としたという事を伺った事があります。エホバの証人の方々は、その恐ろしさの実態を知らないで信じていると言えます。救いという事に関して、私たちの周りには多くの誤った考え、思想がはびこっているといえます。
 わたしたちの信仰生活においても、誤った熱心さによってさまざまなトラブルが起こらないとも限りません。神様、神様と神様を第一の生活をしているように見えても、家庭の事をいい加減にして、教会に用事だからと言っていたとしたら、家族の者たちに対してつまずきあたえないとも限りません。家庭の事もきちんとした上で、神様に対してご奉仕も十分になす者たちでありたいと思います。熱心さは必要であると思いますが自分勝手な熱心さであってはならないと思います。 
使徒の働き4:12には この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
とペテロはイエス様の事をかたっていますが、私たちが救いを受けるのはイエス・キリスト以外に救いはない。と聖書を通して神様は私たちに語っておられます。
私は27歳で転職して東京に移りすみました。その時、目黒教会に客員として過ごしていた事があります。その時、青山学院大学の講堂でイースターの集いがあり出かけて行きました。その時のメッセンジャーは東京日本を代表する伝道者のひとりとして羽鳥明先生でした。その時、お話された時の事を忘れることができません。その時の話のない様な次のようなものでした。
羽鳥明先生の弟さんは純二と言われる方で牧師をされていますが、羽鳥明先生が若かった頃、弟さんはクリスチャンではありませんでした。弟さんは東京大学を出たほどの人だそうですが、学生運動から共産党員だったそうです。羽鳥明先生は、イエス様の救いを伝えたいと考え、弟さんの為に祈り、何度も教会に誘ったそうです。しかし教会に行きという事は言わなかったそうです。ところが、ある時、『兄貴、俺も教会に行ってもいいぞ』と言ってくれたので、『これは、しめた』と思い、東京のある教会の礼拝に連れて行ったそうです。そこには宣教師がいて、時々、外部の日本人牧師が招かれてメッセ−ジをするという教会だったそうです。しかし、初めて弟さんを教会に連れて行ったとき、その当日は日本人の牧師で、余り、雄弁な方ではなく、ひたすらにイエス・キリストの十字架の話を語ったそうです。『イエス様は、あなたの罪の為に十字架にかかったのですよ。イエス様を信じれば、どんな人でも罪が赦されて、天国に行くんですよ。イエス様がよみがえられたように私達も永遠の命を持つんですよ。イエス様を信じましょう。』と単純に語られたそうです。羽鳥明先生は、その話を伺いながら、『こんなお話じゃインテリの弟は救われない。もっと気のきく話をして欲しいな。これじゃ益々心を頑なにするだけだ』と思ったそうです。
終わった後で『どうだったと』弟さんに聞くと「全然、わからなかった」と子垂れられたそうですが、でも「もう一度、行ってみたい」と言ったので、今度は違う先生だと期待して、次の週に出かけて見ると、先週と同じ先生だったそうです。何故か「また、あの先生だ」と思ったそうです。そしてまた同じ話で「イエスは、あなたの罪の為に死んでくださって・・・・・。信じれは救われるのです。信じるだけで救われるのです。何も考えずに信じるだけでいいのです。」と言うお話だったそうです。そして最後に『イエス様を信じる人はどうぞ手を上げてください』という招きをしたそうです。羽鳥明先生は『今日も駄目だ』と思って、弟さんの方をふっと見ると、弟さんの純二さんが手を上げ、しかも涙を流していたそうです。その日は、弟さんがクリスチャンになった素晴らしい日になった日でした。単純なキリストの十字架のお話を通してインテリの共産党員が救われたそうです。その時の事を後に牧師になられた純二先生は次のように述べられています。
『私はクリスチャンになった時、働いていた会社を辞めなければなりませんでした。その会社を辞めなければなりませんでした。その会社は共産党の為に活動している会社でしたから、私はもうそこで働くことは出来ませんでした。その日から私は失業しました。年は30歳近くになっていました。私は毎日、家事をしました。炊事をして、掃除をして、井戸端でゴシゴシと洗濯しました。日曜日になると往復の電車賃とそれから献金の為のお金を貰って礼拝に出席しました。周りの人達から見たら何とつまらない、ふがいない毎日だと思ったかも知れません。しかし皆さんは、私がそのような毎日を過ごしながら、生まれて初めて、本当の『生きている』という喜びを味わう事が出来たのです。そうです。私は変わったのです。新しくなったのです。第一コリント5章17節『5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」
私は命の喜びを経験したのです。そして今も経験し続けているのです。
と語ったそうです。私自身は羽鳥明先生のお話を伺った時、どのなに面白い話よりもイエス様の救いの御業を単純に伝える事こそ、力があるという事を教えられました。パウロは第一コリント人への手紙1章18節において
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
としるされているように、十字架のイエス様が人を救うといえます。パウロが語っている事を私達は忘れてはならないと思います。
 ユダヤ人たちはローマ人への手紙10章の3節を見て戴くと、
10:3 というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義に従わなかったからです。
ユダヤ人たちは救い主であるイエス様を見出す事が出来ませんでした。パウロは10章4節での信じる人はみな義と認められるのです。と語っています。この4節で言うところの義いう言葉は救いと言い換えることができると思います。救いは神様からの絶対的な赦しです。
10章の5節から8節に記されている事
10:5 モーセは、律法による義を行なう人は、その義によって生きる、と書いています。
 10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
 10:7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
 10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
この箇所の御言葉は分かったような、分からない言葉でもあるといえます。
 6節の鍵カッコ、「だれが天に上るだろうか。」という事はイエス様が私たちの救い主であるという事を否定する言葉であり、7節の「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」という言葉もイエス様の救いを否定する言葉であるといえます。
イエス様はヨハネ14章6節において
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
と語られたようにイエス様こそが唯一、神の国、天国への入る唯一道であると語っておられるのです。私たちが救われるのは10章9節〜13節に記されているように
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
 10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
 10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる。」のです。
とあるように、すべての人に同じ主がおられ、イエス様を呼び求める人を豊かに恵になられるお方であるというのです。
 12節でユダヤ人とギリシャ人という言葉が使われていますが、ユダヤ人たちは宗教的に熱心な人々を表し、ギリシャ人達は知恵ある人々を指しています。この世の宗教、この世の知恵の区別なく、イエス様こそが私達を救う唯一の神であるという事です。
 ユダヤ人たちの大きな間違いはイエス・キリストを救い主を認めず、自分の義を求めたところにあるといえます。私たち、イエスを救い主と信じた信仰者に対して神様は大きな使命を持っておられます。それは10章14節に記されています。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
というように、私達にはイエス様こそ救い主である事を伝えるという使命があるという事です。伝えた人がどの様に受け取ろうとも、伝える事が求められています。
私は東京聖書学院生という神学校の神学生の時、7月から8月の2ヶ月間は地方の教会を主に教会内に泊まり込んで訓練を受けるという夏期派遣の時がありました。その奉仕の一環で聖書学院では毎年、伝道チームをつくり、日本各地にあるいくつかの教会を訪問し、伝道を助けるというプログラムがありました。私には関係がないと考えていましたが、2年生の時、伝道チームの一人に選ばれ、3つの教会を1週間から2週間にかけて3名で教会に宿泊し奉仕させて戴いた事がありました。その時、千葉県の○○市にある教会で奉仕致しましたが、そこでの奉仕は市内全域に、○○教会の教会案内のパンフレットと公文教室のパンフレットを配布する事が主な奉仕内容でした。私は、教会案内のパンフレットは喜んで配布できたのですが、正直言って、何故、公文教室のパンフレットを配らなければならないのかと思っていました。牧師夫人が公文教室を教会でやっていた関係でいっしょに配布してくださいと牧師先生から依頼を受けたのです。その事に対して不満を持っていた私に一つの御ことばが心の内に示されました。ローマ書の10章15節の御言葉でした。10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。という御言葉です。もしかして、この町にも誰かが主の救いを求めているかもしれないと思われ、喜んで教会案内を夏の暑い日差しの中、配布の奉仕をさせて戴きました。
私が学んだ東京聖書学院の同級生の中には、学校のゴミの焼却場に落ちていたトラクトを見て教会にいき、信仰を持ったと言う人がいました。私たちは、だれが主の御救いの恵みに与るか分かりませんが、恵みを受けた私たちはイエス様の救いを伝える務めがあるといえます。
神様はイスラエルの民に対しては異邦人を救い、イスラエルの民にねたみを起こさせるのだと語られているだけではなく、不従順の民に対しても一日中、手を差しのべておられる神であるというのです。私達、すべての民が救われる事を神が願っておられる事を心に留め、イエス様の救いを伝える者たちでありたいと思います。
【2008/09/08 21:14】 | メッセージ | page top↑
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