プロテスタント・福音主義キリスト教会 日本ナザレン教団 阿倍野教会 礼拝メッセージ
2008年9月14日 聖日礼拝説教
2008年9月14日 聖日礼拝説教
聖書箇所:ローマ人への手紙11章11節から24節
説教題:神の富と知恵と知識

 おはようございます。明日の15日は敬老の日です。今年、4月に阿倍野教会の牧師に就任した私は敬老の日はどのようにされておられましたかと教会員の方々に伺うと、阿倍野教会では敬老の日の最も近い日曜日に敬老の日礼拝を行っており、75歳以上の方々を一つの区切りとしていると伺いました。私が3月までいました九州の八幡教会でも敬老の日のお祝いの時を待たせていただいておりましたが、私たちは様々な試練、困難を乗り越えてきた信仰の先輩方を大切にする者たちでありたいと思います。私たちの教会にとっては大切な存在の方々です。敬老の日をお祝いされる方がたに取って、75歳と言っても未だ未だ、若い人たちよりの元気な人達もおられ戸惑いを覚える方々もおられると思います。しかし、一応、75歳以上というラインを設けていますので、その事をお許し戴き、阿倍野教会の教会員の中で75歳を超える方々の事を憶えて祝福のお祈りをさせて戴きたいと思います。
 今朝はローマの信徒への手紙11章全体を通して、神様のご配慮はどれほど私たちにとって素晴らしいものかという事をごいっしょに見て参りたいと思います。
 11章36節を見ますと、
11:36 というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。
わたしたちのこの世の生涯は、二つの扉を持つ部屋たとえる事が出来ます。一つの扉は誕生と言う扉であり、もう一つの扉は死と言う扉です。私達は誕生と言う扉と死という扉のある部屋でこの世の生涯を過ごし、やがてはこの世の生涯を終えると、死の扉が開き、次の世界へとすべての人々が旅立たなければなりません。人は、死という扉の向こうにどの様な世界が待ちいけているのかという事を知っている人と知らない人ではこの世での生き方も違ってくることでしょう。パウロは11章36節において「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。」と記しているように天地万物は創造主なる神様によって始まり、神様の支配にとって保たれ、神様のご計画によって導かれているという言葉を持って、神様を褒め称えて、ユダヤ人並びに異邦人である私達の救いに関する締めくくりをしています。では神様の救いのご計画とはどの様なものでしょうか。
先週、先々週のお話に引き続いて、イスラエルの民の救いに関しての神様のご計画が9章か
ら今朝の聖書箇所である11章にわたって記されています。
11章の1節を見ますと11:1 すると、神はご自分の民を退けてしまわれたのですか。と、パウロは自分の同胞であるイスラエルの民達の救いを神様は退けられたのでしょうか。と書き記しています。そして、1節の続きに、自分の事を思い、私自身はこの私もイスラエル人で、アブラハムの子孫に属し、ベニヤミン族の出身です。と考えるならば、私が神様の恵みである救いにあずかったとするならば、神様が選ばれた自分の民を退けたりなさったりはされないはずではないかという思いを述べています。このパウロの語った言葉から考えるならば、私たち信仰者は、未だ救いに与っていない身内の方々がおられても、決して失望してはならない事を教えられます。なぜなら、あなたが、私が主の御救いに与っているからです。
先日、牧師会があり、その中で「牧師の訪問について」の研究発表がなされ、そのあと、牧師先生方による訪問についてのディスカッションがありました。その中である先生が、奥さまがクリスチャンで、ご主人は未だ信仰を持っておられない方の家を訪問された時の事をお話くださいました。そのお家を訪ねると、ご主人はすぐに奥に入っていて出て来られなかったそうです。しかし、ご主人が病気で入院され、入院先にお見舞いに行く中で、喜んでくださるようになり、心を開いて、自分が過去に犯した事の罪を告白し、受洗の至った時の事を話してくださいました。私たちは、あの人は聞く耳がないと思っていても、そこには何らかの理由が隠されているのかも知れません。しかし、決してあきらめてはいけないと思います。神様が備えてくださっている時があると言うことです。
 パウロは自分が神様のみ救いに与ったのだから、自分の同胞を見捨てられたわけではないはずだと語った後、イスラエルの預言者であるエリアに語られた神様のお言葉を取り上げ、11章2節から5節において次の様に述べています。
11:2 神は、あらかじめ知っておられたご自分の民を退けてしまわれたのではありません。それともあなたがたは、聖書がエリヤに関する個所で言っていることを、知らないのですか。彼はイスラエルを神に訴えてこう言いました。
11:3 「主よ。彼らはあなたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されました。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」
11:4 ところが彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたしのために残してある。」
11:5 それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
と言うように列王記上18章、19章において記されている出来事を持って述べています。列王記上18章、19章では、どのような事が記されているでしょうか。
北イスラエルの国の王アハブとその妻、イゼベルは主の預言者たちを切り殺しました。そんな中で、主は預言者エリアに対してアハブ王の前に姿を表しなさいと命じられました。エリアは神様の命じられた通りにアハブ王の前に姿を現します。アハブ王はエリアの顔を見ると、『お前か、イスラエルをわずら煩わすものよ。』と言う言葉を投げかけると、エリアはアハブ王に対して、「主の戒めを捨て、あなたとあなたの父の家こそイスラエルを煩わしている。」と非難し、今、イスラエルのすべての人々とイゼベルの食卓に着く450人のバアルの預言者、400人のアシュラの預言者と共に、カルメル山に集まるように使いのものを送り出して戴きたいと告げ、カルメル山頂において自分が仕えている真の神様とバアルの預言者450名とアシュラの預言者400人とあわせて850名の偽預言者たちを向こうにまわして、戦いを挑みました。エリアはたった一人で立ち向かい真の神を信じる信仰に立って戦いを繰り広げます。カルメル山上に壇を築き、犠牲を捧げ、それぞれに祈り、その祈りの答えとして天から火を下して、犠牲を受け入れた神を本当の神としよう告げました。この事は真の宗教の神と異教の神との戦いといえます。
バアルの預言者である450名の者たちは朝から晩まで大声をあげ神に呼ばわりました。しかし、何の変化も起こりませんでした。ついにバアルの預言者たちはつるぎ剣と槍で自分たちの体を傷つけ、血を流して自分たちの神に呼び求めました。しかし、叫べど、叫べど、何の変化も起こりません。そんな光景を見ていたエリアは『どうしたんだ、お前らの神は、昼寝をしているのか、それとも旅でもしているのか』とバアルの預言者たちを皮肉ります。
次にエリアが私の番だという事で壊れかけていた祭壇を築き直し、祭壇の周りに溝を設けてから、生け贄を祭壇の上に載せて、その上に水をかけて祈りました。祭壇の周りの溝も水で一杯となりました。エリアは水をかけてわざわざ祭壇にかけて、火を付きにくくしました。エリアにはどんな風にしても火が降るという確信があり、エリアはあえて燃えにくくしたと言えます。そして、エリアは神様に「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、きょう、明らかになりますように。 18:37 私に答えてください。主よ。私に答えてください。この民が、あなたこそ、主よ、神であり、あなたが彼らの心を翻してくださることを知るようにしてください。」
と祈りました。すると神様はエリアの祈りに答えられ、天から火を下され、祭壇の捧げられた犠牲を焼き尽くされました。それを見た民達はひれ伏し、『主こそ神です。主こそ真の神です。』と神を呼ぶ歓声が起こりました。そのため、後にエリアはイスラエルの王の王妃であったイゼベルに命を狙われます。エリアは自分が信じ仕えている神様こそ真の神だと、それこそ有頂天になって、偶像に仕える偽預言者たちを主こそ神ですと歓喜の声をあげたイスラエルの民たちに全部処刑させました。そんなエリアに対して、アハブ王の妻であったイゼベルが怒っているという事を耳にして、エリアはそこを逃げ出し、ホレブで神様の前にふてくされていました。神の山、ホレブの洞穴に潜んでいる時、神様はエリアに「なにをしているのか」と語られました。エリアは「何をしているかではありませんよ。イスラエルの民が皆、あなたを捨てて、私がたった一人で一生懸命やって、あなたが神であることが示されたのに、イゼベルが私の命を狙っています。どうしてあなたはそんなことをするのですか。天から火を下したのはあなたではないですか。何とかしてください。」と言いたかったと思います。その時、神様は「エリア、そうではないぞ。お前が一人で戦い火を呼び下したかのように言うけれど、バアルにひざを屈めない7000人を私の元に隠しておいたぞ。」と語られました。つまり、『エリア、恐れることは無いのだぞ。イゼベルがどんなに迫害してきても、お前の命に指一本ふれる事は出来ないぞ。私はバアルに屈しない民たちを7000人も残しているのだ。ここから出て、北の王国に行き、革命が起こったから新しくたった王に油を注ぎ、お前の後継者エリシャにも油を注いで預言者としなさい。』と命じました。エリアは神様の命じられるままに再び立ち上がりました。
神様はたったエリアに対してお前は一人で戦っていたと思うかも知れないけれど、お前だけではない。バアルに屈しない者、お前には見えないかも知れないが、その者たちが残されているのだと告げられたのです。
 私たちの周りに家族の中で自分がたった一人、信仰者で、あとはノンクリスチャンという状況の中で戦っておられる方もおられるでしょう。しかし、エリアのように主を信じる者が信仰に立って祈る時、勝利を与えてくださるばかりか、私たちの見えないところで神を信じる者たちを神様は選び、残していて下さる方だという事です。
 エリアは、7000人もの、バアルに屈しない者たちがいたという事に力を与えられたといえます。エリアは7000人もの人がいるとしたらもっと大きな希望が持てると思ったのではないでしょうか。
 私は、岡山にいた時、勤めていた会社の帰りに救世軍の教会を通った時、聖書入門講座
があるという掲示板のお知らせを見て、救世軍の教会も門をくぐり、聖書の学びをしてい
た事がありますが、その時、ビリーグラハム先生を招いて東京の後楽園球場で大きなクル
セードが行われ、大勢の人達がイエス様を信じ、救われた時の話を聞きました。私は、世
界的に有名な大伝道者のビリーグラハム先生の説教を聞いた事がなかったので、教会に備
えてあった説教テープを聞きましたが、平易なお話で、それほど感銘を受けませんでした。
しかし大勢の人達が救いの決心を呼びかけると決心者が大勢起こったという事を聞かされ、
何故、と思ったものですが、大会の為に時間をかけ、祈りの集会を開き、当日には地下の
ホールで何百人もの人達は講壇の上でメッセージを語られるビリーグラハム先生の為に集
会の為に祈っていたと言う事を教えられました。この教会の働きも陰で祈っていてくださ
っている方々に支えられているからこそ、ここに教会があり、福音宣教の業がなされてい
るといえます。私は礼拝の前に、下の食堂で数名に女性の方々が礼拝の為に、牧師のメッ
セージが祝されるように祈っていてくださっている姿を、本当に嬉しく思います。
 エリアという一人の人がバアルとアシュラに仕える850名の者たちの勝利をもたらした
神様は私たち、阿倍野教会に属する者たちにも大きな事をなして下さるはずではありませ
んか。エリア以上に、主を信じる者たちが心を合わせて祈る時、主は大きな事をなして下
さるという事ではないでしょうか。
 エリアは自分が一人で戦っていると思っていたことでしょう。しかし7000人という人々
の事をしり、どれほど励まされたことでしょうか。7000人の人々はいやいやながら神様の
選ばれていたのではなく、神様のお恵みによって選ばれていたのだという事です。
 パウロは神が備えて残してくださっていた7000人の民がいたように、今も同じように恵によって選ばれた民が残っていると5節で語っています。それは自分達が偉いからでも何かが出来るからでもなく、神様の恵みであるのだと告げているのです。
 私達は、ふっとこれからの先、どうなるのだろうかと言った不安がよぎってくるかも知れません。しかし主はすべての事に対して備えておられる方であるという事を心に留めておくものでありたいと思います。
 パウロは11節において
11:11 では、尋ねましょう。彼らがつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それは、イスラエルにねたみを起こさせるためです。
ユダヤがつまずいたことによって、異邦人に救いがもたらされる事となったのだ。そして異邦人である者たちに対して野生のオリーブの枝が接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになっているからと言って、折り取られた枝に対して誇ってはなりませんと注意をうなが促しています。20節から22節を見て戴きたいと思います。
11:20 そのとおりです。彼らは不信仰によって折られ、あなたは信仰によって立っています。高ぶらないで、かえって恐れなさい。
11:21 もし神が台木の枝を惜しまれなかったとすれば、あなたをも惜しまれないでしょう。
11:22 見てごらんなさい。神のいつくしみときびしさを。倒れた者の上にあるのは、きびしさです。あなたの上にあるのは、神のいつくしみです。ただし、あなたがそのいつくしみの中にとどまっていればであって、そうでなければ、あなたも切り落とされるのです。
11:23 彼らであっても、もし不信仰を続けなければ、つぎ合わされるのです。神は、彼らを再びつぎ合わすことができるのです。
思い上がってはいけません。神様の選びは神様からのお恵みであるのだよ。私たちが神様に対して不信仰に陥ることなく神様の慈しみにとどまるならば、神様の慈しみがあると語られているのです。
 人々の救いに関して神様のご計画があり、そのご計画に関しては、私達のはかり知れない富と知恵と知識の深さを知らされます。神様の定めを極めつくして、神の道を理解しつくす事は出来ません。
 私が八幡教会の教会員の中にMさんという二人の姉弟のお二人が教会に集っておられました。お二人とも独身で、とても仲の良い姉弟ですが、幼い時、大変、苦労されたお二人だと伺っていました。その事もあり、兄弟で助け合い支え合っておられました。その方のお父さんは、若い頃、熊本の八代というところでキリスト教の信仰をもたれ、結婚をきっかけに北九州に出で来られたようです。しかし、結婚後、キリスト教の信仰を失われて過ごしておられたようです。その後、どのような事がったのかわかりませんが、奥さまと離婚され、奥さまは故郷の熊本に戻られ、二人の子供と父親との生活が始まったようです。息子さんは、日々の生活の中で父親が口ずさんでいた歌を良く耳にしていたそうです。そんな中で、お姉さんが天幕集会に行かれた事がきっかけで当時、八幡教会の牧師であられた仲村先生の奥様が何度も何度も家を訪問し、信仰をもたれるようになられました。その後、お父様も弟さんも神様を信じる信仰を持たれました。お父さんが天に召される時、二人の子供に母親を赦してやってほしいと言い残し天に召されたそうです。お母さんは離婚後、故郷に帰り、一人住まいをされておられましたが、しかし年月の経過と共に高齢となられ、周りに誰も見てくれる人がないという状況の中で、二人の子供である姉弟が引き取り、一緒に生活されるようになられ、離婚されたお母様も信仰を持たれました。そのような一連の出来事を考える時、神様のご計画の素晴らしさを教えられます。私たちは、時として何故、どうしてという事があるかも知れません。しかし、神様は不思議な事をなしていて下さるお方であるとしか考えられません。私達の考えを超えた神様の御手があるという事をつくづく教えられます。ここに集っておられる方々おひとりお一人、神様によって導かれておられる事を心に留めつつ、神に感謝して希望を持って歩む者たちでありたいと思います。
 最後に御言葉をお読みして終わりたいと思います。
ヨハネ15章16節
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。
神様が私達を選んでくださった事を感謝しその恵みに答える者たちでありたいと思います。
【2008/09/16 11:10】 | メッセージ | page top↑
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