プロテスタント・福音主義キリスト教会 日本ナザレン教団 阿倍野教会 礼拝メッセージ
2008年5月11日 聖日礼拝説教
         聖書箇所:使徒言行録1章3節から11節
         説教題:「神様の約束としての聖霊」
 おはようございます。日本を代表する大伝道者の一人として本田弘慈先生のお名前が上がると思います我、本田先生がお書きになられた「日々のキリスト」というデボーション用の本があります。その本の中に次のような事が記されていました。
サムエル記上、12章23節の
12:23 私もまた、あなたがたのために祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。
という御言葉から、次のように書いておられます。
「祈りの力」という本を書かれたバウンズ博士は、祈祷がどれほどクリスチャンにとって、また、教会にとって必要なものであるか力説しています。また彼は次のようにも語っています。「説教がなくてもリバイバルが起きた事はありますが、祈祷なくしてリバイバルの起きた事はありません。」祈祷は神と交わりと共に、神様の御手を動かす武器です。祈祷がどのように大切であり、必要であるかを語っても、決して語りすぎる事はありません。旧約の預言者サムエルは祈らない事は罪であるとさえ言っているのです。神様は私達の祈りを待っておられます。祈りに答え、私達を通してご自身の御業を進めようとしておられるのです。」と書いておられます。
 
今日は、今から約2000年程前にエルサレムにおいて聖霊降臨の出来事が起こり、教会が誕生した日です。その聖霊降臨日の出来事は120人ほどの人達が一つとなって祈っている中で起こった出来事でした。聖霊降臨の出来事から皆さんとごいっしょに見ながら、2000年後に生きる今日の私達に対して、また阿倍野教会に対して神様が何を教えようとされているのか御一緒に神様の語りかけを聞きたいと思います。
 今朝の聖書箇所である1章3節から5節を見ますと
イエス様が十字架におかかりになられ、墓に葬られ三日目にご復活なされました。そして40日にわたってお弟子さんたちの前にお姿をお見せになられ、神の国についてお話なされた時、使徒の働き1章4節5節に記されているように
「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
と語られました。
父に約束されたもの、それが聖霊によるバブテスマです。イエス様がお約束された通り聖霊様がご降臨され、その日にキリスト教会がこの世に誕生しました。この時から今日に至るまで、教会の時代は続いていますし、イエス様に変わり、聖霊様が、私達と共におられ信仰者を導いておられるといえます。
 私達は神様という方はどの様なお方ですかと人に聞かれると、三位一体というキリスト教用語を用いて説明いたします。しかし、よくよく考えてみると、聖書には三位一体という言葉は出てきません。父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神様がおられ、そのお方はひとつであるという事を言い表すために三位一体という用語を使って表現しています。しかし、実際に、父と子と聖霊がひとつの神様という、何か分かったようで分からない。
エホバの証人の人達はキリスト教会の信仰の弱い人達に、皆さんが教えている教会の三位一体という教えは聖書にはありませんと語り、私達の教えが正しいと伝えます。信仰があやふやな人達や、昔キリスト教会に行った人達が、エホバの証人に惑わされ、エホバの証人へとなっていく人がいるようですが。私自身も神様が三位にしてひとつであるという事を、どのように説明を試みても説明出来ません。カール・バルトという世界のキリスト教会に大きな影響力を及ぼした聖書学者がおられました。バルト先生は20世紀最大の神学者であったといってよいでしょう。私はナザレン神学校で喜田川先生からカール・バルト先生の本をテキストとして教えて戴きましたが、バルト先生であっても、三位一体を説明しきれないと正直にカール・バルトが書いた教会教義学の本の中で論じています。しかし、そうであっても、バルトは三位一体を説明しきれないとしても私は探求し続けると述べています。それほどの三位一体を説明する事は大変難しい事であり、私達人間の理性や知性で説明しきれないといえます。ただ、私達が天に召されたとき、理解できなかった事がはっきりと分かると思います。その時を楽しみにして神様を信じ続ける者たちでありたいと思います。エホバの証人の人たちが教えている事が一見、わかりやすく思えますが、聖書はイエス・キリストこそ救い主であるという事を証言する書物であり、イエス・キリストの救いを否定する者たちの教えに惑わされないで戴きたいと思います。
 私たちが今、手にしている聖書を歴史的な尺度で捉えたとしたら、聖書を次のよう捉え方をすることが出来るのでは無いでしょうか。
聖書を旧約聖書、福音書、福音書を除く新約聖書と区分すると、旧約は父なる神様の時代、福音書はイエス様の働き、新約聖書を聖霊様の時代というように見ることも出来るのでは無いでしょうか。と言っても聖霊様の働きは旧約聖書にはまったく無かったかというとそうではありません。使徒言行録28章25節を見ますと、パウロが「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの先祖に語られたことは、まさにそのとおりでした。」と語っていますが、この事から、旧約の時代においても聖霊なる神様は特定の人物に語りかけられたという事が分かります。が新約時代のように顕著ではなかったといえます。しかし、神様が定められた時、聖霊降臨の出来事は起こりました。その出来事は、まさにイエス様が話された約束を祈りながら待っていた者たちに聖霊様が望んだという事です。そして、その御業はイエス様が再び来られるまで、聖霊様の働きが今も尚、教会を通して、イエス様を信じる者たちを通して続いているといえます。
 イエス様が天にのぼられる前に、お弟子さんたちはイエス様に1章6節で
1:6 さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。
ところ、イエス様は
「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 1:8 あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
と答えられました。
 聖霊様が下った時、どの様な事が起こるのか、それは力を受けるという事です。力を受け、イエス様の証人になるという事です。証人、イエス様こそ救い主ですと証しする人たち、この事を証し、宣べつたえる力があたえられるというのです。
 私は20歳の頃、50ccの原付バイクに乗って夜間大学に通っていた事があります。バイクの燃料タンクには予備タンクの為のコックがあって、もし燃料がなくなれば、予備タンクのコックを捻ると、5キロメートル位、走る事が出来るからと原付バイクを購入した時バイク屋さんから教えて戴きました。ある時、バイクが走らないのでどうしたのだろうかと思って調べてみると、ガソリンがなくなってガス欠という事がわかったので、早速、バイク屋さんに教えて戴いたように、予備の燃料タンクのコックを開こうと思っていたら、既に予備の燃料タンクのほうにコックが捻ってあって、本当のガス欠となり、重いバイクを引っ張って、ガソリンスタンドまで行き、ガソリンを入れていただいた事があります。燃料のガソリンがなくてはバイクを走らせる事が出来ないようにイエス様の証人として、イエス様の救いを人に伝える為には聖霊様というお方の力がなければ出来ないことであるといえます。
中川健一先生というテレビ伝道者として有名な先生がおられますが、中川先生が毎月発行されておられるでボーション雑誌の「クレイ」という月刊誌の中に次のような文章が記されていました。 
 ジョン・オルトベルク牧師は「リーダーシップ」誌で、次のように述べている
 霊的成長は、航海に例える事が出来る。
 ある人達は、来る日も、来る日も、良い人となって霊的に成熟するために努力する。これは手漕ぎボートで大海を渡ろうとする人に似て、やがて疲れてしまい、たいていは失敗する。ある人は、努力する事もやめてしまい「神の恵み」に身を任せてしまう。これはゴムボートで漂流する人に似ている。彼らは、自分自身では何もせず、ただ神にしがみつき、神が目的地に連れて行ってくれる事を期待する。手漕ぎボートも漂流ボートも、霊的変化をとげる為に効果的だとは言いがたい。その点、ヨットはどうだろう。ヨットは風だけを頼りに動く、人は風をコントロールする事はできないが、熟練した乗り組み員は風の向きを判断し、船を操る、つまり風と人との共同作業で、ヨットは正しい方向に進む、同様に聖霊との共同作業で、人は霊的変化をとげる事が出来る。ヨハネの福音書3章で、イエス様は聖霊を風に例えた。人は自ら行くべき方向を知り、神が与えて下さるどんな微風をも捉える事が出来るように、訓練をつまなければならない。と記されていました。
信仰生活において、聖霊様の働きを素直に受け止める事が出来るか、否かという事が、私達に求めておられる事であるといえます。聖霊様の風は吹いているのに受けそこなってしまったとしたら本当に残念な事では無いでしょうか。
 私は牧師ではありますが、一人の妻と二人の子供を持つ父親でもあります。私と妻は時として意見の食い違いがあり、討論を超え、喧嘩へと発展する事があります。喧嘩の原因の多くは私自身にあるのですが、皆さんは、エー牧師先生ご夫妻でも喧嘩するのですかといわれ、驚かれるかも知れませんが、私は夫婦喧嘩をする事があります。皆さん、つまずかないでくださいね。喧嘩になると、一番、迷惑な思いをし、悲しいのは子供たちです。子供たちは親が仲がいい事を最も望んでいます。家庭でも、教会でもそれは、同じではないでしょうか。教会で神様が喜ばれ事、ご人格を持っておられる神様が喜ばれるのは、それは神様を中心にして、兄弟姉妹たちが愛し合い、助け合い、支え合っている事ではないでしょうか。
 今朝、司会者に読んでいただいた聖書箇所の少し先の2章1節から13節にはイエス様がお約束された聖霊様がご降誕された時の事が記されています。
 1節から4節を見ますと、
2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、
2:2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。
2:3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。
2:4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。
と記されています。2章1節に五旬祭の日が来て、と記されています。五旬祭と言ってもユダヤ人としての宗教的背景のない社会に住んでいますので、直ぐにピンと来ないかも知れません。イスラエルには三大祭りという祭りがあります。それは旧約聖書に記されている出来事を背景に持っている祭りです。その三大祭りとは「過ぎ越しの祭り」、「刈庵の祭り」、そして五旬祭とも呼ばれる「刈り入れの祭り」の三つです。五旬祭とは五十日目の祭りという事です。私達は一月を三つに分けて、上旬、中旬、下旬と言った言い方をしますが、この分け方は10日に区切っています。つまり10日が5つあっての祭りという事で五旬祭と呼びます。五旬祭という用語について新共同訳聖書の用語解説の箇所を見ますと、
ユダヤ教の三大祭りのひとつ、麦の収穫を祝う祭りであったが、同時にモーセがシナイ山で神様から律法を授けられた記念の祝祭でもあった。過越祭の安息日の翌日から数えて50日目に当たるので、この名で呼ばれた。ギリシャ語で「ペンテコステ」(50の意)。旧約では「週の祭り」あるいは「七週祭」と呼ばれる。と記されています。
 用語解説から理解できますように、過ぎ越し祭の時になると、祭りの為に多くの敬虔なユダヤ人たちが、各地から、毎年エルサレムに集まっていました。そのような中でイエス様のお弟子さんたちは1章14節、15節に記されているように
1:14 この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。1:15 そのころ、百二十名ほどの兄弟たちが集まっていたが
と書き記しているように120人ほどの者たちがひとつ処に集い祈っていたといえます。そのような中で聖霊降臨の出来事は起こりました。その出来事の様子を使徒言行録の著者であるルカは2章2節、3節、4節において
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
と書き表しています。
私はこの箇所を読んで思わされる事は、聖霊様がどのように御降臨くださったかという事ことを著者のルカが表現するにあたって、実際に激しい風が吹いてくるような響きおこり、また、炎のような舌が一人ひとりにとどまったと、表現しなければ、表現できない様な出来事が、聖霊降臨の日に起こったと考えます。その結果、聖霊様が働かれ、集まった者たち一同が聖霊様に満たされ、聖霊様の働きによって、自分達では考える事も出来ない言葉を語りだすという現象が起こったという事を著書のルカ言い表したかったのではないでしょうか。また、その霊が語らせるままに他の国の言葉で話し出したという出来事が起こりました。この出来事は御霊様が人を通して語られた言葉であるといえます。聖霊様がお働きになる時、人間の常識では理解できない事が起こるという事でもあります。
 五旬祭祭りのために帰ってきていたユダヤ人達が物音に大勢集まり、自分の生まれ故郷の言葉が離されているという不思議な出来事にあっけに取られます。そしてどうして、この人達はガリラヤ生まれなのに、めいめいが生まれた故郷の言葉を話しているのを聞き、驚き惑い。これはどういう事なのだろうと語たり、ある者たちは「新しいぶどう酒によっているのだ」と言ってあざける者たちもいた。と記されています。聖霊様の傾注、つまりそそぎがなされる時、酒によっているような光景が見られるといえます。
昭和5年に日本のある神学校で、祈祷会がもたれている時、聖霊様の傾注が起こり、悔い改めと賛美と祈りがなされ、学生の教授たちが喜びに満たされ、抱き合ったりして、その出来事は昭和のリバイバルといわれ、多くの人々を救いに導いたと語り伝えられています。
 聖霊様の働きに対して、ある者たちは、そのような出来事に対して冷ややかな目で見るでしょう。しかし、ペテロは、この人達は朝の九時ですからあなた方が考えているよう、酒によっているのではありません。と否定し、これこそ、預言者ヨエルを通して語られた出来事であると話はじめました。
 2000年程前に起きた聖霊降臨の出来事を私達信仰者はどのように捉え、どのように受けとめなければならないでしょうか。
 この出来事は120人ほどの者たちが、一同がひとつになって主の約束を待ち続けた事によってなされた出来事でもあるといえます。それは、ただまっていただけではなく、1章14節に記されているように、心を合わせて熱心に祈ってなされた出来事であるという事です。そこには、自分こそが、自分こそがという思いはありませんでした。
 私達の教会はどうでしょうか。私達は神様の働きが進められていく為に、聖霊様が特にこの阿倍野教会に臨んでくださるように求めていく必要があるのでは無いでしょうか。
 皆さんの心は喜びに満たされていますか。私達の周りに対して、自分が受けた恵みであるイエス様の救いを証ししていますか。イエス様の救いを証する事が出来ていないとするならば、なおさらの事、聖霊様を求めなくてはいけないのでは無いでしょうか。私達が集っている阿倍野教会が主の救いを宣べつたえるという使命を果す教会となろうではありませんか。そして、あなたの周りで、あなたの家庭で、あなたの務めている職場で、主を信ずる人たちが起こるといった顕著な働きが多く起こされますように・・・・・・。
お祈りいたします。
【2008/05/11 15:21】 | メッセージ | page top↑
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