12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。と語っています。ベンゲルという神学者は、この箇所について『モーセは命じ、使徒は勧める』と言う解説をしているそうです。旧約において主なる神様はモーセに対してイスラエルの民に命じなさいと語られ、モーセは神様から告げられた言葉通りに命じています。しかし、パウロは「私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。」というようにあくまでも「あわれみ」によってお願いします。というように、力や正義による押し付けでは無いという事です。憐れみとは貧しい人や弱い人に対してのあたたかい思いやりの心であなた方にお願いしますと願っています。
パウロは人の持つ罪と弱さを充分に考慮した上で、私達、信仰者が歩むべき道を教えています。パウロは12章1節、2節において3つの事を勧めています。この3つの事を見ていきたいと思います。12章1節2節を見ますと
12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。
12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。
記されていますが、1つ目は『あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい』と言う事、2つ目は『この世と調子を合わせてはいけません』ということであり、3つ目は「心の一新によって」という勧めです。
パウロが勧めている1つ目の『あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい』というパウロのお勧めについて考えて見たいと思います。
旧約の時代、神様にささげる生け贄として、傷のない牛や羊などの動物を罪に償いや感謝のしるしとしてささげ物をしました。この事は新約において傷のない神様の生け贄として神様の御子であるイエス・キリストが十字架に架かり、わたしたちの罪の贖いをなしてくださいました。イエス様の贖いの御業によって、私たちが神様に対して罪に贖いをなすという事がありません。ただ感謝して、その救いの受け入れることによって神様からの裁きは赦され義とされました。その事を感謝して、自分の体を神様にささげなさいとパウロは勧めています。
私達がささげ物をする場合、どの様な気持ちを持って捧げるかという事がいつも問われていると思います。
献金にしても、そうです。ルカによる福音書21章1節から4節(p.146)を見ますと
21:1 さてイエスが、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていた。
21:2 また、ある貧しいやもめが、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れているのをご覧になった。
21:3 それでイエスは言われた。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。
21:4 みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」
金額ではなく、どの様な思いをもってささげたかという事をイエス様は評価されていると言えます。どれほど沢山の献金をしたかと言う金額ではなく、わずかな金額であっても、その人の神様に対する思いを受けとらえる方であるといえます。時間も含めて私たちが神様に対してどれほどの思いを持ってささげているかという事です。
心のこもっていないささげ物をどれほどしても神様はお喜びになられない方であるといえます。旧約聖書、創世記4章を見ますと、アベルは肥えた初子である子羊をささげました。カインは土の実りをささげました。神様にアベルもカインもささげたのに、カインとアベルの捧げたものに対して神様が目を留められたのはアベルのささげ物でした。私達、人間は外見で判断します。しかし、主は心を見られます。その人がどの様な思いを持っているか。今日の礼拝においても私達一人ひとりが神様に対してどの様な思いをもって集っているかという事を思わされます。
私は23才の時、愛知県からユーターンして宮崎で一年間生活しました。その時、ナザレン教団の月見が丘教会に導かれました。その月見ヶ丘教会の教会員だった一人姉妹が何かおりにお話して下さったお話を今も忘れずに憶えています。○○姉は、私は日曜日の礼拝には、必ず下着を着替えて出席しています。と話しておられ、その当時の私は、そのような思いがありませんでしたので驚きました。ある有名な牧師先生も、聖日の朝には下着を替えて備えているとお話されておられ、私もその事を習って行っています。私たちは大切な人と出会うとき、どのような装いを持って臨むでしょうか。あなたの愛する人がデートに誘ってくれた時、破れかけた、シミのついた服を着て、会いに出かけますか。決して出かけないのではないでしょうか。神様は、私たち一人一人を愛し、神様にお会いする為に出かけてきたのではないでしょうか。
自分のからだを聖なる生け贄として神にささげなさい。生け贄とは神様に自分の命を預けるという事であり、これこそが私たちがなすべき礼拝であるとするならば、神様に対する思いよりも、礼拝の中において、色々な思い考え方があるならば、そこには神様を喜ぶという真の礼拝がなされていないと言えると思います。
八幡教会にいた時、マルコによる福音書4章35節から41節に記されている、「嵐を静めたイエス様の奇跡の出来事」から話し合いの時を持った事がありました。イエス様はお弟子さん達に向こう岸に渡ろうと言われ、共に舟に乗って舟は向こう岸に向いました。その途中、激しい突風が起こります。弟子達の中には漁師がいたのにもかかわらず、舟のともの方で寝ておられたイエス様を起こして「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか。」と言うと、イエス様は起き上がられ、風を叱りつけ、湖に向って「黙れ、静まれ」と言われると風はやみ、すっかりなぎになった。という出来事ですが、この事について、弟子達の信仰の姿をどのように思いますかと聞いた時、私の妻が以前、読んだ本の中に信仰とは舟がもし沈んだとしてもイエス様がごいっしょなら、それはそれでよいではないか。それが神様を信じるという信仰ではないかと書いてあった事を思い起こします。と語ってくれましたが、そのお話を聞いて、私達は日々の生活の中で平安な時は神様、神様と言っていても、いったん嵐という出来事の中でも徹底的に神様に従う事が出来るかというと、ついつぶやいたり、困難な状況で悩まされるのではないでしょうか。そんな時こそ、信仰が試されるのでは無いだろうかと思います。「お前は私を信頼できるか。」「徹底的に私に従って来れるか。」という事を、いつも主は私たちに問いかけておられるのではないでしょうか。私達は自分自身を神様に委ねきった日々を過ごしているでしょうか。
アメリカにジミー・カーターという元アメリカ大統領がおられますが、彼は大統領の時も、日曜日になると、ワシントンからジョージア州に飛行機で飛んできて、日曜学校の生徒達に教えたといわれています。私達はアメリカ合衆国大統領がわざわざ、日曜日に教会学校で教えるなんてと考えやすいものですが、それだけ神様を第一しているという事を教えられます。
では、神様が私達に求めておられるものは一体,どのようものでしょうか。私たちが信じている神様は、天地万物すべてのものを創造された方であり、無から有を作り出すことの出来るお方です。その神様が、私達、人間に求めておられるものは、詩篇51篇16節17節(p.876)に記されているように
51:16 たとい私がささげても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。全焼のいけにえを、望まれません。
51:17 神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
神様は焼き尽くすささげ物よりも打ち砕かれた霊を喜んで受け入れてくださるお方です。
私達は神様に喜ばれるものとして神様にささげる者たちでありたいと思います。
パウロが勧めている二つ目の12章2節前半に記されている「 12:2 この世と調子を合わせてはいけません。」という事について考えて見たいと思います。
パウロがこの世と調子を合わせてはいけません。と語っているこの世とは一体どのような世界でしょうか。私達はこの世にあって生活している者たちです。しかし、クリスチャンはこの世から選び出された存在です。この世から選び出された存在であるという意識が少しもないとしたら、そのような人はクリスチャンとは言えないでしょう。この世とは一体何をさしているのでしょうか。
この世とはギリシア語では「アイオーン」とか「コスモス」と言う言葉が使われていますが、時には自然的世界をさす場合もあれば、人間の世界を指しますが、多くの場合、神様と対立する世界を意味しています。ヨハネの手紙 第一2章15節から17節をみますと
2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。
ヨハネの手紙第一2章15節から17節で記されている、この世の特徴は肉の欲、目の欲、生活のおごりと言われるものであり、肉の欲とは、霊よりも肉を愛することであり、目によくは見えないものよりも見える物を愛することであり、霊なる神様より、この世の目に見えるものに重点を置く生き方といえます。私達は地の塩、世の光ですとイエス様が語ってくださいましたが、塩が塩気をなくしたら外に捨てられてしまうように、この世に埋没したら、この世と何の区別のなくなってしまいます。12章2節前半に記されている「12:2 この世と調子を合わせてはいけません。」と言う言葉の調子を合せるといった言葉はギリシア語の(スン・スケーマティゾー)という言葉ですが、この意味は適合する、同化すると言う意味であり、この世と何の区別もなくなってしまうならば、もはや何の存在価値がなくなってしまうという事をさしているといえます。ですから、私たちはこの世に埋没して、同化してはなりません。あなた方はこの世から選び出されたものだと言う自覚を持って欲しいと勧めているのです。
3つ目の「心の一新によって自分を変えなさい。」という事について、ごいっしょに考えてみたいと思います。
私達は、救われる前に価値観は、今あるものよりも、最新のものというように、新しいものに、心奪われ、大切な事を忘れていた事があるのでは無いでしょうか。
私達はイエス様を信じ、この世の価値観で生きるのではなく、神の子とされた者たちとして生きる生き方が求められていると言えます。
私達は次から次へと新しい物が出てきて、確かに新しい物は古いものよりも目新しさがって、便利なものがあるかも知れませんが、この世の物はすべて過ぎ去るものであると言えます。私達クリスチャンは、永遠に変わることのないものに目を向けて、その時、その時の出来事に心を奪われてはならないと思います。私がナザレン神学校に入る前に勤めていた会社にいた時、今から十数年前の事ですが、「たまごっち」という携帯用のゲーム機が流行りました。パートで働いていた人が、何時間も並んで、自分のものと子供の物を買ったという事を耳にした事がありました。今、たまごっちに夢中になっている人はいますか。いないと思います。
パウロは「心の一新によって」と書き記しています。新たにするという言葉はギリシャ語でカイロスという言葉であり、質的な新しさを意味する言葉です。
この世の物は、過ぎさります。しかし過ぎ去ることないものがあります。
「草は枯れ、/花は散る。1:25 しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。」
ペテロ第一の手紙1章24節、25節の言葉です。主の言葉は変る事のない言葉であり、この
世の過ぎ去っていくものではなく、イエス様によって新しくされて、いつも何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる者たちでありたいと思います。
3節から8節においては私達一人ひとり神様から戴いた賜物を用いて主の体である働きをなしなさいと勧めています。自分の手を見て戴きたいと思います。親指、ひとさし指、中指、薬指、小指、全部の長さが一定ではありません。もし、同じ長さだったどうでしょうか。きっと使いづらいのではないでしょうか。人間の体の器官がそれぞれに異なって、それぞれの働きをしているようにお互いの与えられた賜物によって神様の御栄をあらわす者たちでありたいと思います。
最後に山形の米沢にある米沢興譲教会の牧師である田中信生先生が書かれた本の中に次のようなお話が書かれていましたので、そのお話をご紹介して終わりたいと思います。
『私たち信仰者は、自分たちの心の中のものをイエス様にみんな明け渡して、私の人生の主は私ではなく造られた神様が私の主です。そう宣言しましょう。もうすでに聖霊の業があなたのうちに始まっています。あなたが、神様に作られた目的にふさわしく用いられ、良き音色を奏で、良き香りを放つようにあなたが生かされていくのです。
かって、ヨーロッパにあった、大きな礼拝堂での土曜日の事でした。教会付きのオルガン弾きが一生懸命オルガンを練習していますと、一人の旅人が聞きなれた音楽に耳を傾けて、そこに入ってきたそうです。年老いたその人は、オルガンを弾く人に「大変、恐縮ですが私にちょっと弾かせて下さいませんか。」「だめだめ、これは私以外に弾かない事になっているから」とみすぼらしいその人を見て言いました。確かに誰にでも弾かせて、壊してもいけないという事もあるでしょう。ですから丁重に断りますと、どうしても聞かせてくださいと、あまりしつこく言うので、そのご老人にオルガンを弾かせました。オルガンの前にそのご老人が座ると、指が流れるように動き、オルガンの音が美しく聞こえました。「あなたは誰ですか」とオルガン奏者はびっくりして言うと、「ハイ、私はこの曲を作ったメンデルスゾーンです」といったというのです。「あなたは学歴もないのに、過去にいろいろな失敗があったのにもかかわらず、どうしてそんなに喜び、確信を持って生きていらっしゃるんですか」と聞かれたら、こう答えられますでしょう。
「ハイ、私の主はイエス・キリストです」と書かれていました。
私たち、主を信じる者たちは主が共におられ、私たちを通して、私でしか奏でる事の出来ない音色を主が奏でてくださっているという事です。主を心から信じ、この世にあって
喜びを持って過ごす者たちでありたいと思います。
お祈り致します。