先週の礼拝ではローマ人への手紙12章1節から8節にかけて、神に喜ばれる生活と題してお勧めをいたしました。12章の後半については時間の関係で触れることができませんでしたが、素晴らしい教えに満ちています。是非とも、12章9節以下の御言葉を心の内に刻んで戴きたいと思います。
キリスト者の生き方として12章15節にしるされている「喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く」という生き方を、心から実践しているならば、そこに神の国の姿を見る事ができるのではないでしょうか。
まさにイエス様こそ、嘆き、悲しみ、苦しみの中にいる者たちの世界においで下さり、イエス様にふれ、どれほどの慰めを受けたかわかりません。そのような私たちに対して、神様は12章19節〜21節において
12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
というようにどのような状況の中にあっても、神様を信頼し、神様の御手にお委ねし、悪に負けることなく、善を持って打ち勝ちなさい。と勧められています。
百万人の福音10月号に四国の土居という所で、牧師をされておられる千葉先生の証詞が書かれていました。私は千葉先生が加古川教会で牧会されておられた時、聖書学院生(神学生として)で夏季派遣時の伝道チームの一員として訓練の一環としてご奉仕させて戴きました。
先生ご夫妻は、3人の神学生に対して温かく接して下さり、いろいろと教えてくださいました。そんな中で世間を知らないといいますか、私自身が先生に対して、学生でありながら非礼な態度を取った事を今も尚、思う出す事があり、いつか千葉先生にお会いしたら、お詫びしなくてはと思っておりました処、この度、先生の事が掲載されていましたので、お電話して、千葉先生に、その時の非礼をお詫びしましたが、先生は、私は何も覚えていませんよ。伝道チームの人たちが良くして下さった事に心から感謝していましたとお話してくださり、先生の優しさに感謝致しました。
百万人の福音、10月号の千葉先生のお証詞の記事を読ませて戴く中で、先生が幼くして受けた傷の故に苦しめられ、その中で神様の愛に包まれて、癒されて、今日があるという事を知らされました。千葉先生は5歳の時、母親が再婚し、義理の父親から虐待を受ける日々を過ごされたという辛い中を歩まれ、幾度となく、死にたいと思うような中を過ごされましたが、そのような千葉少年を、主は守り支えられ、今、牧師として尊いお働きをなされておられます。(詳細な内容については2008年10月号の百万人の福音または土居キリスト教会のホームページの牧師紹介をご覧ください。)
その千葉先生の元に2006年正月、かって自分を虐待した父親から電話があり、「もしもし、○○です。わたしのこと覚えていますか。」「今日は昼から電話の前に座り、夜になるのを待っていました。今までずっと胸につかえていた事を話したくて・・・・あなたが牧師になったと聞いたので・・・・受話器を放り投げないで聞いてもらいたいんです。私があなたの父親であった10年間、殴ったり怒鳴ったりして、本当に申し訳なかった。どうか許してほしい」と告げられたといいます。
その後、父親に会ってイエス様の福音を伝えたいという思いを持って祈りはじめた千葉先生の奥様はご主人が幼い時に受けた昔の傷がトラウマとなって出てくるのではないかと心配されたそうですが、しかし、その心配もなく、千葉先生は、かっての父親と30年ぶりの再会を果たされたといいます。そして父親の心の内を聞く事が出来たと言われます。かって自分を虐待した父親には人に言う事も出来ない。どうする事も出来ない幼い頃から青春時代に受けた怒り、悲しみが有ったと言う事を知ったそうです。人が生きていく中で、自分ではどうする事も出来ない中で、神様によって救われ、神様に希望を見出し、歩んだ千葉先生の背後にはクリスチャンの祖父母と牧師であった祖父母の叔母がおり、祈りに支えられていたといえます。
私は、千葉先生のお証を読ませて戴きながら、神様は本当に不思議な事をなされる方であると思わされた者です。
マタイ26章52節において、イエス様は「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」
と語られたばかりか、マタイ5章44節において「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」とイエス様は語っておられます。私たち信仰者には主に対して祈るという最大の武器である祈りがあるという事を忘れてはならないといえます。そのような観点から、今朝の聖書箇所を見ていきたいと思います。
ローマ人への手紙13章1節を見ますと「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」とあり、この世に存在する国家に対して、神に立てられたものとして従う事が求められています。建てられた国家の指導者たちは、唯一なる神に支配のもとにあるという事に故にあるという事が求められているといえます。この世の指導者たちに対して、絶対服従かというとそうではないという事も聖書の中の出来事から教えられます。かってユダ王国はバビロン帝国によって滅ぼされ、4人の少年たちは他の者たちと共にバビロンに捕囚の民として連れていかれバビロンの王であったネブカデザル王に仕えました。そんな中でネブカデネザル王は金の像を立てさせ、国々のすべての高官を招集し、伏して拝むように命じられた時、ユダヤ人たちであったシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは金の像を拝む事をしませんでした。そんな彼らをカルデア人たちが訴え、3人は燃える火の中に投げ入れられる事となります。シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に「私が立てた金の像を拝まないというが本当かと聞かれた3人は王の対して「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。 3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」と答えています。3人のシャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火い焼かれること無く守られて、穴から出てきました。また、ダニエルも唯一の神に祈っている事を咎(とが)められ、ししのいる穴に投げ込まれましたが、主はダニエルが獅子に襲いかかられること無く出来てきました。この一つの例から考えても唯一の信仰が脅かされる以外は上に立てられた権威に従うことが求められているといえます。神は後にバビロンに変わって登場するペルシャ帝国の殺す王の時、エルサレムに帰ることが許され、神殿を再興する事となります。歴史を導かれる神様がおられるという事を、私たちはいつも心の内に留めておく事が大切な事であると思います。
私たちはこの世に生きる中で果たすべき義務は義務として果たし、善を持って生きる事が求められています。
7節で「13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」
というように、果たすべき勤めがあるという事です。
不正な事をしている者たちにとっては、自分の内に隠されて罪の故に、後ろめたさを感じますが、何の隠し事のない者たちにとっては、恐ろしいものはありません。
私は4月に大阪に来てからは、ほとんど車に乗りませんが、時々ですが、教会の用事で車を運転する事があります。私は車を運転する時、いつも制限速度を少し超えたくらいのスピードで車を走らせますが、しかし、いつもにこにこ安全運転の私ですが、時としてスピードを出しすぎることがあります。そんな時、後ろにパトカーがいないだろうかと見る事があります。制限速度で走っているなら、何もパトカーを恐れる事はないといえます。
私は13章1節から7節にしるされている、上に立つ権威に従いなさいという教えについて記されている箇所を読む中で、私は日本の政治家の人々や教育界に経済界に人々たちの事を覚えて祈っているかという事を示されました。時として日本の政治が誤った道を進む事がないようにと祈った事がありましたが、しかし、もっと真剣に、私たちが信じる神様の御旨に従った政治がなされるようにと祈り求めていくことが求められていると思いました。
8節〜10節には愛は律法を全うするという事が記されています。愛する事、これこそが主なる神様が私たちに求めておられる生き方であるといえます。
榎本保郎先生の説教集の中に、かって榎本先生に集っていた若い夫婦で目の不自由の方が相談に来られた時の事が書かれていました。その盲人の方は4人兄弟で4人とも弱視か目の見えない人であったそうです。相談に来られた方は4番目の子供として生まれた方だったそうですが、母親が長男の方に一緒にいたそうですが、喧嘩して次男のところに身を寄せていたそうですが、そこでも喧嘩になって3男のところに行き、そこでもうまくいかず、自分のところに来る事になったので、どうしたらいいだろうかという相談だったそうです。相談に来た人は、アパートにただ一つしかない部屋を昼間、鍼灸とマッサージの部屋として使い、夜はそこに布団を敷いて寝るという生活をされておられたので、相談を受けた榎本先生は、いろいろ考えた末に、有料老人ホームを勧められたそうです。先生はお母さんをそこに入れ、費用をあなた方が稼いで支払ってあげて、日曜日の礼拝に来たら、必ず、お昼のお弁当を持って訪ねてあげて、お母さんと交わりなさいと勧めたところ、奥さんが「先生、クリスチャンでも、そんな事してええんですか。」と聞いてきたそうです。「私はそんなところに入れるのは嫌です。イエス様は自分を愛するように隣人を愛しなさい、と言われたのに、そんなことしていいんですか。」その言葉を聞いた榎本先生は、ムカッと来て「ええか悪いか。そんなこと知った事ではない。相談に来たから言っているんじゃないか。悪ければ自分の好きなようにしなさい。」とそこまでは言わなかったそうですが、心の中で言ったそうです。もちろん、老人ホームに入る事がいいとか。悪いとかはその人の主観ですが、自分たちにとって、主観的に「そこには入りたくない」「自分はしたくない」という事を姑(しゅうと)に押しつけて、それで隣人を愛している事になるかと考えたというのです。榎本先生は、そのように言われてみると、私は言わなければよかったと思ったそうです。どっちが牧師かわからないようになってしまい。それで「それなら、あなたの好きなようにしなさい」と突き放したそうです。そしたら二人は「それじゃ、お母さんを私たちのところに迎えます」というので、それなら、はじめから何も相談せんでもいいのにと思っていたら、二人が帰りついた頃に電話がかかり、娑婆に出て、冷たい風に吹かれ、やっぱり先生の言った事が確かやという事で老人ホームに入れますと事かと思い「私のいう通りにしたのかね。」というと「違います。」「どうしたんですか」と聞くと、私たちがアパートの玄関に入ると、廊下から一人の人が出てきて、その人が「実は私は今日、自分が借りていた部屋を出なければならなくなりました。あなた、すいませんが、私が借りているところの部屋を借りてくれませんか。」と言われたというのです。目が不自由な人が家を借りるのは、火の後始末の問題があり、家主が貸してくれるといっても隣近所の人たちが反対したりして難しいという中で、予期もしないで帰ると、向こうから借りてくれと言われ「先生、やっぱり神様は生きておられます。」と言われ何と返事をしても良いかわからないので「よかったね。」と言って終わったそうです。榎本先生はこの時の事は忘れられない出来事であったと語っておられます。先生は神様の言葉を用いる事を恐れた。だから神様の栄光を見る事が出来なかったですと包み隠すこと無く語っておられます。神様の言葉を信頼し、信仰に立って歩む時、主は不思議な事をなして下さる方であるという事を教えられます。
私たちは、今、大きな時代の変化の時を迎えているように思えます。今後、世界が、日本がどのように状況に遭遇するは、神様以外は誰一人、わからないといえます。そのような中で私たち信仰者は
11節〜14節に記されているように、眠りから目を覚まし、闇の業ともいえる遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい正しい生き方をする事を求められているといえます。
13節、14節の御言葉は聖アウグスチヌスが回心した時に語りかけられた言葉です。彼は若い時、母親のモニカが嘆くようなふしだらな生活をしていました。
そんな中で取りて、読め、取りて読めという子供たちの声が聞こえ、聖書を読んだ時、最初に目にとまった御言葉がローマ書13章13節、14節の御言葉であったといいます。彼はこの御ことばによって新しく生まれ変わったといいます。しかし、その背後に祈りの母がいた事を忘れてはならないと思います。
私たち信仰者が主を信頼し、主に希望を持って祈る時、主は不思議な事をなして下さる方あるといえます。
13:10 愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
神様の愛を受けた者たちとして、愛を持って生きる者たちでありたいと思います。主は愛する者たちと共に働いて万事を益となしてくださるお方です。いかなる状況に中にあろうとも、主に望みを置き希望を持って歩み者たちでありたいと思います。
お祈り致します。