プロテスタント・福音主義キリスト教会 日本ナザレン教団 阿倍野教会 礼拝メッセージ
2008年10月5日 聖日礼拝説教
                   2008年10月5日 聖日礼拝説教
              聖書箇所:ローマの人への手紙14章13節〜23節
                  説教題:「神の国を生きる」
 おはようございます。今朝は『神の国を生きる』と言う説教題で「神の国」とはどの様なところなのか。また神の国に生きる者たちは、どの様な思いを持って生きる事が求められているのかという事を皆様方と御一緒に考えて見たいと思います。
ローマ教会において信徒の間に論争があったと考えられます。いったいどのような問題であったのかというと、パウロは14章3節と5節においてその問題について取り上げています。14章3節と5節を見て戴いたいと思います。
14:3 食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです。
と記されており、5節には
14:5 ある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。
というように3節と5節からわかる事は、食べ物の事と、特定の日について教会内での争いが起こり、その事についてパウロは裁いてはいけませんと勧めています。
パウロがここで記している信仰の弱い人としている者たちは、菜食主義者の者たちであり、肉を食べる事を何故、拒否したのかと言うと、健康上、肉を食べないのではなく、当時の異邦人社会において、市場において売られていた肉の中に、犠牲として偶像にささげられたものがあり、知らずに、この肉を食べて、自分を汚すと考えたからでした。その事をもっと具体的に推察するならば、ユダヤ教やイスラム教の人々は豚肉は汚れたものと考え口にしません。ユダヤ教からキリスト教の改宗者がいたとして、その改宗者は豚肉を口にする事に抵抗を感じる事でしょう。異教の神にささげられた肉だと考え、肉を食べないと主張する者たちが存在し、片方では、どのような肉であっても、肉に対してもなんの抵抗を示さない者たちもいる。そこで肉を食べる。食べないといった論争が起こったとしても何の不思議ではありません。その論争に対して、パウロは14章1節で14:1 あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。と語り、批判してはならない、むしろ信仰の弱い人を受け入れなさいと語っています。

 キリスト教会には日々の生活において、キリスト者としてゆるされる行為と許されない行為があろうと思いますが、教団、教派によって、微妙に異なっていると思います。お酒を飲む、飲まないといった事、一つをあげても言える事ですが、お酒を飲む事を禁じているキリスト教の群れがあれば、そうでは無い群れもあります。昔の日本ナザレン教団は禁酒禁煙という教えであったそうです。しかし、今はそこまでは厳格に言わない風潮になっています。しかし、あるキリスト者の群れでは、禁酒禁煙で教職者(牧師)が酒を口にすると教職者の身分をはく奪される厳格なキリスト教の群れもあると伺っています。洗礼に関しても滴礼による洗礼は認めないで浸礼で、しかも自分達の信仰しか認めないというキリスト教信仰の群れが今でも存在します。ですから自分たちの群れに入る場合は、もう一度、洗礼を受けなおさせるという信仰の群れもあります。バプテスト教会は浸礼しか洗礼を認めていませんので滴礼のよる信仰者がバプテスト教会に加入する場合、浸礼による洗礼を受けなおさなければならないとも言われます。確かに、それはそれなりの理由があると言えるでしょう。教団、教派によるそれぞれの信仰形成の生い立ちがあるのでやむおえのないのかも知れませんが、ともすると、自分達の信仰だけが正しいと強く主張するならば、危険な群れへと変化してしまうかも知れないという事を心にとめておかなければならないと言えます。何が正しい事で、何が正しくないことなのかという事を、いつも聖書のみことばに照らし合わしながら、行動する事が求められているといるのではないでしょうか。

 パウロは14章1節で14:1 信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません。と語り、批判してはならない、むしろ信仰の弱い人を受け入れなさいと語っています。
 私達はともすると、信仰の弱い人が教会内で問題を起こした時、私達は何故、そのような問題を起こしたことについて、その人の信仰がしっかりしていないからだとせめてしまいます。家庭内の問題でも同じ事をしているのではないかと思います。そうではなく、その問題のある人達を受け止め、それの人の気持ちに立って考えているかと言うと、意外とそうではない事に気づかされます。

 私が阿倍野教会に赴任する前の八幡教会で牧師をしていた時に教会標語としてローマ書12章15節の12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。という御言葉を提案させて戴いた事があります。私達は涙を流す人と共になく事は出来ない事は無いかも知れません。しかし、喜ぶ人と共に喜ぶ事はで来そうでも出来そうはありません。私たち主にある者たちは兄弟・姉妹という交わりを持つ者とされた関係において、共に喜び、共に泣くという間柄でありたいと思います。
 
 私の上の息子が中学生の時の冬休みの宿題として、俳句10句作ってくるようにと言う課題が出された事がありました。上の息子が考えた、俳句を10作った内のひとつに次のようなものがありました。季節的に、丁度、正月を迎えたばかりだったという事もあるのでしょうか。「弟の 額が気になる お年玉」と言うものでした。自分が与えられたものを感謝して受け取るのはいいけれど、どうしても人の事が気になりるのが人間の持って生まれたものかしれませんが、的を良くついている俳句であると思います。もし、自分が友人と一緒に同じ試験を受けて、自分が不合格で友人が合格した時、素直に友人の合格をお祝いできるような心境になれるでしょうか。心から喜んであげる事が出来ないのが本当の気持ちではないでしょうか。

 私達は他の人、特に教会内の信仰的な弱い人に対して、どのように接していくかという事については裁くことではなく受け入れていう事が求められているという事であろうといえます。
 7節から10節を見ますと
14:7 私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありません。
14:8 もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。
14:9 キリストは、死んだ人にとっても、生きている人にとっても、その主となるために、死んで、また生きられたのです。
14:10 それなのに、なぜ、あなたは自分の兄弟をさばくのですか。また、自分の兄弟を侮るのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。
私達はいつも、14節に記されているような場に自分がいつか立たされる時が来るのだという事を心しておく必要があると思います。
 私達は一人の例外なく、神様の裁きの座の前に立たされ、今までの歩んできた生涯を歩みを神様の前であらわに見せられる時があるという事です。

 ヨハネによる福音書8章1節から11節には姦淫の現場で捕えられた女性がイエス様の前に引き出されました。その時、律法学者達やパリサイ派の人々がイエスさまに向かって、『「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」イエスを告発する為になされたものでした。しかし、イエスは彼らの問いかけに答えられず、身をかがめて、指で地面に書いておられましたが、しかし、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われると、再び身をかがめて、地面に書かれました。それを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、誰一人、石を投げる者はいませんでした。そこには、イエス様と女性のみが残されました。イエス様は身を起こして、その女性に「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」と告げられると、「だれもいません。」と応える女性に対して「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」語られました。
私達は、自分に罪がないといえる人はだれ一人いないといえます。もし、石を投げる者たちがいたとしたら、イエス様は決してそのものを赦す事はなされなかったといえるでしょう。神様の前にはだれ一人罪のない人はいないといえます。17節を見ますと
14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
と記されています。神の国は飲んだり食べたりするようなところではない。聖霊様によって与えられる神様の義と神様との平和であり、神様によって与えられる喜びであると言ってもいいのでは無いでしょうか。

 私は聖書学院生の時、優秀な先輩が作成した共観福音書と呼ばれる、マタイ、マルコ、ルカが記している神の国のたとえを一覧の表にして表した物をいただきましたが、その一覧を見ると、神の国のたとえが、色々な区分されており、そこから神の国とは一体どの様なもの何かという事が具体的に見えます。福音書の中に、ヨハネによる福音書がありますがヨハネにはヨハネ独自の神の国の捉え方がある事を知らされました。先輩がまとめた表によると「永遠の命」という事でまとめられており、永遠の命ということで見て行くならばヨハネが語ろうとしていた「永遠の命」とは「神の国」と同じだという事になるという事を教えられました。
 ここにおられる皆さんは、神の国とは、今の日本の法治国家のような形態の国家を指すのではないという事はご存知の事だと思います。
ルカによる福音書17章20節、21節(p.198)を見ると、
17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」
と言うようにイエス様は神の国は見えるような形で来るものではないと語られました。
 神の国は支配であるという事です。神様を信じる者たちが集まる教会は神の国の雛形であるといえます。そこでは罪ある者たちが神様によって罪赦されて神様を礼拝するところでもあるといえます。
 また、マルコによる福音書1章14節(p.59)でイエス様はバプテスマのヨハネが捕らえられた時、ガリラヤへ行かれ、
1:15 「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」
と記されています。イエス様自身が時が満ち、神の国は近づいたと語られた事が神の国に対する理解が深まることであろうと言えます。イエス様の到来によって神の国が近づいたということです。神の国について考えていくならば、神の国とはイエス様、そのものであり、イエス様の御救いを受ける時、そこに神様によって罪赦された者としての平安と感謝が満ち溢れてくると言えます。
 ですからパウロはローマ人への手紙14章17節で
14:17 なぜなら、神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです。
と書き記した事が理解できると言えます。
 
 
 私が北九州市にいた時、ホタル館という市の施設があり、無料で入館できる施設という事もあり子供と何度か行った事がありますが、ホタル館では、ホタルを卵から孵化させて幼虫を育てていますが、私は夏の終わりに見学にいって見て知った事は、本来ならば、8月の終わりには、北九州のホタルはもう生息できるような状況ではないそうですが、{北九州のホタルは6月頃から1カ月間が通常の生息できる期間}しかし、ホタル館では、地上での生息できる期間が一ヶ月も長く生きており、8月も終りというのに、お尻から光を放っていると言われ、その光を放っているホタルを見せて戴きました。どうして、長い生き出来たのかというと、一定の室温の管理の部屋で飼育されていたという事と、もう一つ、ホタルが長生き出来る秘訣がある事を教えていただきました。それは砂糖水を含んだ袋に秘密があると教えて戴きました。ホタルはデリケートな昆虫で水のきれいなところしか生息しないと言われています。特に餌となるカワニナというタニシみたいな貝がいないとホタルは生息しないと聞いています。
 私は九州山脈のど真ん中の山村で育ちました。私が幼い時に、口にした歌があります。ほ、ほ、ホタル来い、こっちの水は甘いぞ。ほ、ほ、ホタル来い、こちの水は甘いぞ。ほ、ほ、ホタル来い、あっちの水は苦いぞ。と歌っていました。ホタルは甘い水を求めて集まるのです。私が小学生の頃までは夏の夜になると家にホタルが飛んで入って来ていました。それがいつの間にか来なくなりました。その事を考えて見ると、家の直ぐそばを流れていた谷がコンクリートで固められた谷となってからからだという事に気づきました。私達は効率を追求するが故に何か心が冷たくなっていることは無いだろかとも思わされます。効率化を求めるが故に、ホタルの様な弱い昆虫は生息できなくなってしまうという事を考えると、人間とホタルを同じ様に捉えてはいけないと思いますが、教会の建物がどんなに立派なコンクリート作りの教会であり、外面的に見てどんなに立派であっても、信仰的に弱い人たちがさばかれたり、信徒同士が論争し合ったりしていたとしたら、救い求めて来る人たちは、教会に来るようになる事はないのではないでしょか。むしろ弱い者たち達は去っていくのではないでしょうか。教会には様々な信仰の経験、体験を持つ者たちが集っています。私達が所属する阿倍野教会の中においても、色々な意見があるでしょう。しかし主にある兄弟、姉妹として、主に罪赦された者たちの共同体として、共に励まし合い、祈りあう教会を共に目指していく者たちでありたいと思います。
 
 
【2008/10/05 22:16】 | メッセージ | page top↑
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